俺達は、瀬戸の海に臨んだ学校の、容赦なく吹き付ける潮風に、髪も肌も痛めつけられながら過ごす三年間の幕が、切って落とされた入学式で俺達は出会った。俺の隣の席にあいつは座った。それを運命だと言える程少女趣味でもなく、偶然だと割り切れる程冷めてもいなかった俺は、あいつに声を掛け、何となく友人となった。そう、俺は常に他人との会話においては「あいつ」としか呼ばず、あいつとの会話では「お前」としか呼ばなかった。あいつの名前だけは、学校で家でも、呼ばなかった。理由は今も良くわからない。
藤村凛。
一見すると、女のような名前だ。実際彼は繊弱な、色白で体つきも細く、いつも何か超然としている印象で、あの頃の、まさに遊び盛り、馬鹿をやる盛りの少年の中で、激しく浮いていた。だが、それを揶揄した声は聞き覚えがなかった。あるいは、最初の頃にはあったのかもしれない。しかし、いつしか消えた。あいつは中身と外見が相容れない、もっとも極端な例であったろう。苛烈な性格と柔和な容姿。初対面の誰もが騙され、誰もが驚き、ある者は不快感を覚えて腹を立て、また、ある者は却って彼に惹き付けられる。あいつには、そんな一面があった。

「太一は良いね。そういう事、一度も言わないし」

とにかく、見てくれと中身のギャップばかりが取り沙汰されるあいつにとって、それを口にしない俺の存在は貴重なものであったろう。俺もその事を感知していたから、間違っても地雷を踏むようなヘマはしなかった。もっとも、1ヶ月も経つと、皆、あいつの正体を把握できたから、上面と内面の比較をされる事は、どんどん減っていった。
さて、そうして何となく誰もが誰かと友人関係を作り、何となく自分が演じるべき役割を理解して、クラスや学年を運営し始めた頃には、あいつは美術部に、俺はテニス部に、それぞれ所属することになった。そうなると微妙に時間のズレが生じて、行きも帰りも一緒だった登下校の時間が揃わなくなった。もっとも、俺は、それを気に留めなかった。だから、あいつも気に留めていないと思った。何度も言うが10代の少年にとって未来は無限であり、今できなくてもいつかできる、今は違ってもいつかは同じになる、と本気で信じられるのである。俺は新人戦だの地区大会だのと、先を見て大騒ぎをする仲間ができてそれなりに充実したクラブ活動だったから、余計にそうだったのかもしれない。まったく悩むという事を知らなかった。思い出すと、本当に自分は馬鹿だったと思う。そして、あいつはそんな馬鹿ではなかった。

「自分に正直な太一が羨ましいよ」
「そうか?」

そんなあいつの皮肉をこめた言葉を俺はロクに理解もできなかった。てっきり褒められたのだと思ったのだから、当時の俺が如何に馬鹿だったかがよくわかる。赤面ものだ。コートの周りを走り回り、球拾いで右往左往し、汗と砂に汚れていた俺を、時々、あいつは美術室から眺めていた。視線を感じて振り向くと、美術室の窓の傍でスケッチブックを持ったあいつと目が合った。すでに美術部顧問から目を掛けられ、早速何かのコンクールに出展する作品を描いていたあいつと違い、俺まだまだ下っ端だった。別に恥ずべき事でもなかったが、俺はひどくその事を気にしていた。そこには同級生に張り合う気持ちと、何かとても複雑な、きわどい感情が入り混じっていた。
だが、夏がいつかは秋に変わるように、永続するものなどこの世には存在しない。
何がきっかけだったのか、覚えていない。至極つまらない、些細な事だったと思う。その時の光景は、今も脳裏に焼きついて離れない。あいつが階段の上にいて、俺は下にいた。しかも、何をしていたのか、俺は腰を屈めていた。何かを拾おうとしていたのか、靴紐でも結んでいたのか。まったく定かでない記憶だが、あの時のあいつの表情と口調だけは一生忘れないだろう。

「きみはここで一体何をしているんだ」

荊姫を守った城の棘のようなその言葉が、かつてない、そして、その後も一度としてなかった程冷たい声が、今も耳を離れない。直前まで何を話していたのかも、どこへ行こうとしていたのかも、それが放課後だったのか否かも、何もかも忘却した今でもなお、忘れられぬ声。あいつはあの時、確かに俺に対して苛立っていたのだ。そして、その苛立ちは俺にはわからないものだった。返す言葉もなく、やや呆然としていた俺に、だがあいつはそれ以上は言わなかった。言う必要を認めなかったのか、言っても無駄だと思ったのか。後者だろう。そして、俺はその配慮に甘えた。太陽光の下で走り回るしか能のなかった俺にとって、あいつの思索の淵はあまりにも深過ぎた。考えるのも、覗き込むのも、嫌だった。そうして、俺達は初めて、お互いの間の埋めようもない溝に直面した。別にだから友情が壊れた、と言うことはなかった。そんな風に単純ではなかった。

「きみはここで一体何をしているんだ」

あれは、もしかしたらあいつの独白だったのかもしれない。そう思えるようになったのは、卒業し、さらに年月をかけてからだった。まだ若かった日々に、その言葉は深く打ち込まれた杭だった。何よりも、それに答えられない俺自身を直視するのが恐怖だった。それでも、俺達は、決定的な破局に至るでもなく、杭を差し込まれて、やや流れの代わった時間と言う名の川に、それでも暢気に流されていた。まだ、先だ。そう思いながら、季節は移ろっていった。



その日は、恐ろしく晴れ渡った土曜日だった。夏休みと言う怠惰なのか勤勉なのか良くわからない時間はとうに過去となり、またも、惰性的な授業と溌剌としたそれ以外との時間が戻ってきて、俺達が相変わらずの籠の鳥を演じていた秋の、奇妙に安っぽい青のペンキを塗りたくったような、深みに欠けた空を覚えている。

「休み?」
「うん。休みだって」

遅刻寸前に滑り込んだ俺は、同級生からあいつが欠席すると言う話を聞いた。それは入学以来初めての事であり、何となく気に掛かることであった。さりとて、どうしようもない。携帯電話などまだなく、公衆電話を事務に借りにいかねばならなかったから、授業直前の俺には何も出来なかった。
そういう時に限って時間が長いのは何故だろうか。今もわからない。授業は引き伸ばされ、いつまでも終わらない永遠の如くに思われた。そして、それに反抗する術を持たぬ俺達は、ただ、黙っていつ終わるとも知れない苦行の中に沈みこんでいた。すでに夏は過ぎたと言うのに、風と太陽がそのことを忘れたかのように熱を孕んだままの昼下がりまで、俺達は鎖に繋がれた家畜のように過ごした。

「行ってみようか」

そう言い出したのは誰だっただろう。運良く部活が休みだった俺と同級生は、そんな話をしながら教室を後にした。それが運命だったのか偶然だったのか、俺には知る術もない。世はすべて必然と言うが、では、必然とは何だろうか。その答えを知らない以上、あのアスファルトの熱に焼かれた道程を必然と、俺は言わない。言えない。ただ、誰ともなしに言い出した、その事実しか認めようもない。
あいつの家は、俺の家と学校の中間よりやや俺の家よりの所にあった。実は同級生の誰一人としてあいつの家に行った事はなく、俺でさえも門扉の前であいつが出てくるのを待つだけだった。俺が訊ねてインターフォンを鳴らすと、いつも、あいつは慌てたように飛び出してきた。決して俺を家に入れようとはしなかった。だから、訊ねた所で、入れてもらえるのか、追い返されるのか、まったく見当がつかなかった。

「…あれ?」

門扉の前で押し合い圧し合いしながらインターフォンを鳴らしたのは、ちょうど2時半を回っていたように思う。中途半端な空腹感と疲労感を抱えながら、あいつの家の前で立ち尽くし、反応を待った。しばらくして、あいつがインターフォンに出た。

「はい」
「俺」
「ああ、太一」

彼の声は平素と変わらず、俺達は一様に欠席の理由を知りたくなった。だが、彼の言葉は冷ややかだった。

「ごめん。帰って」

あれ、と感じたのは俺だけだったように思う。他の同級生は有無を言わさずにインターフォンを切ったあいつに対して、些かの不満を感じたらしく、口々に不平を言いながらわらわらと家路に就いた。心配して損した、と彼らは言った。そんな彼らと途中まで付き合ってから、俺は違和感だけを頼りに、もう一度あいつの家に行った。あの暑い午後の道路、陽炎の立ち昇る道を、1人で黙々とあいつの家へ向かった。背中を、胸を、額を、頬を、あらん限りの汗が伝うのにも構わず、あいつの家に足早に急いだ。ふと、時々思い出して、あの日のことが不思議に感じられる。あの暑さ。あの、異様な程の蒸し暑さ。すでに秋だと言うのに、眩暈がしそうな程の気温。あれは何だったのだろうか。もしかしたら悪夢と記憶が入り混じっているのかもしれないとさえ思う。あの異常な一日。あの日。そう、この日は永遠の悪夢だ。

「俺」

先程と同じ様にインターフォンを押した俺を、あいつは拒まなかった。しばしの沈黙の後、諦めたように俺に入ってこいと言った。十円玉の様な太陽がじりじりと地表を焼く中、あいつに招き入れられた。そこは、ドアの外と同じ空間とは思えない程、冷ややかで、涼しく、寒気さえ感じさせる場所だった。居間に通される時、廊下の奥から微かに何かの匂いがしたが、はっきりとはわからなかった。整然と片付けられた居間は、まるでモデルルームの様だと思った。

「何?」
「いや、プリント、届けに来たんだけど」

嘘ではなかった。確かに俺は教師からプリントを預けられていた。だが、その事を思い出したのは居間に通されてからで、口に出すまですっかり忘れていた。あいつはその言葉を聞くと、不意に表情を崩した。笑ったように見えた。そして確かに彼は笑っていた。

「ああ、ありがとう」

お茶を出すから、とあいつがキッチンに立った時、俺は全身が総毛立つのを感じた。冷蔵庫を開けている背中から視線を外し、部屋の中を眺め、居心地の悪さに落ち着きを失い、俺はひどく緊張した。なぜだか、あの時はわからなかった。わかる筈もない。何度も言うが、俺は馬鹿だった。転がる球を追いかけることは出来ても、転がる球の行く先を見抜くことは出来なかった。俺が今でも、平凡な、どこにでもいる、ありがちな、いくらでも代えのある人間に過ぎないのも、きっとあの頃からまったく成長していないからだろう。俺は馬鹿だったのだ。

「ご両親は?」
「さあ」

他に適当な話題も見つけられず、かと言って、あれこれ聞き出すことも躊躇われ、俺はまったくロクに話を続けることも出来ずに、ぼけっとソファに座っていた。やがて、あいつが麦茶の入ったグラスを二つ持って来て俺の目の前に座った時に、俺は初めて違和感の正体に気付いた。笑われても仕方ない話だが、奇妙に薄暗い部屋に入ってさえ、俺はその事になかなか気付けずにいたのだ。

「カーテン、なんで閉まってんの?」
「ああ。頭が痛くて、開ける気にならなかったんだよ」
「暗くない?」
「暗いけど?」

あいつは気に留めていなかった。

「これ、プリント?」
「え、あ。うん、そう」
「ふぅん」

綺麗な指がザラ紙のプリントを摘み上げた。黒い髪。白い肌、白い腕、白い指。薄く笑う赤い唇。微かに差し込む太陽光にだけ照らされ、カーテンによって外光と遮断された部屋の中で、あいつの姿が奇妙に新鮮に感じられた。白雪姫。そんな言葉が俺の頭の中を横切って、俺は激しく動揺した。目の前にいるのは同級生の、親友の、同性だ。
俺の感情を読み取ったように、あいつは、にんまりと笑った。

「ありがとう。それで?」

意図のつかめない質問に俺が困惑していると、あいつは冷ややかに言葉を繋いだ。

「きみはここで一体何をしているんだ」

その声が落雷の様に俺の臓腑を抉った。言葉の内容もそうだが、声が恐ろしく凍っていた。まるで氷雪でさえ敵わない程の冷ややかさ。それも刺されるような冷たさではなく、鋼鉄で殴られる以上の痛みをもたらす冷たさであったから、俺は何も口にする事が出来ず、茫然自失の態であいつを見つめるしかなかった。かつて一度だけ聞いた言葉。二度と聞きたくなかった言葉。汗が引いたばかりだった俺の全身は、今度は冷え切った。そして、一度全身が冷え切るところまで冷え切った後には、沸騰がやってきた。凍えた全身は炎に包まれた。それが悔しさか、怒りか、あるいはもっと別のものか、やはり、今になってもわからない。ただ、薄暗がりの中で、黒と赤に縁取られた白い花が、艶やかに涼やかに軽蔑するように咲き誇っていたのが、逆流する血を加速させた。



気が付くと部屋にいた。俺の部屋。10代の子供らしい、趣味と義務と強制の同居した部屋で、ぼんやりと座り込んでいた。カーテンの閉められていない窓の外は暗く、部屋の時計の針さえ見えなかった。身体には妙な疲労感があった。そっと立ち上がって電気を点け、カーテンを閉める。そうして俺がのろのろと服を着替えようとした時、部屋の扉が激しくノックされた。母親だった。

「電話よ」
「…電話?」

差し出された子機を見ても、何も感じなかった。最初は手を伸ばすのさえ億劫だった。しかし、そんな訳にもいかず、俺は仕方なく子機を受け取り、母親を部屋から追い出した。電話は同級生からだった。

「太一、驚くなよ、藤村が死んだって!」

緊迫した声で言われても、すぐには理解できなかった。たぶん、俺は疲れていたのだ。子機を耳にあて、中途半端にシャツのボタンを外した状態で、俺はただ、部屋の中に立っていた。同級生の声が遠かった。それだけではない、子機を持っている手が自分のものだと思えない程、すべての感覚が、ガラス板を一枚隔てた所にあるように、遠かった。

「あいつの家が火事になって、さっき鎮火したんだけど…聞いてんのか、太一!」
「ああ、聞いてる」
「焼けたのは1階で、2階はほとんど焼けなかったらしいんだけど。そこから、遺体出たって」

遺体と言う言葉が、現実離れして聞こえた。同級生は続ける。

「聞いてんのかよ!無事な家族もいたらしいけど、あいつの親も遺体で見つかったらしくて、先生に遺体確認の…」

俺はそこまで聞いて、反射的に電話を切った。そして、慌ててボタンを留めると部屋を飛び出した。母親も、電話の一件を知っていたのだろう、何か叫んで俺を止めたが、俺はまったく聞きもせずにスニーカーを履いて家を出た。通学路を途中で折れて、何度か角を曲がって、あいつの家の前につく。黒く煤けた家屋の周囲を消防車と野次馬が取り囲み、怒号と囁きが入り混じって夜空に響き渡っていた。
不意に、あいつの声が聞こえた。

「きみはここで一体何をしているんだ」

誰かが俺にそう言ったのではない。俺は野次馬の外に立ち尽くしていたが、傍には誰もいなかった。だから聞き間違えではない。あいつが俺にそう言ったのだ。糾弾の言葉だった。一生、俺につきまとう言葉。俺は絶叫した。誰にも聞こえなかったかもしれないが、確かに俺は絶叫した。恐怖と後悔に。誰の耳にも届かない悲鳴を上げた。あいつの声が容赦なく割り込む。

「きみはここで一体何をしているんだ」

俺は道路にへたり込んだ。足が震え、立っていられなかった。野次馬の中から、見知った顔が飛び出して、俺の方に駆けて来たのさえ、どうでも良かった。俺は全身に冷や汗をかき、アスファルトの上に座り込み、右から左から流れ込む音と映像を処理する事もできず、焼けて使い物にならなくなった家の、壁と窓が壊されて剥き出しになった、火炎に舐められ煤に汚れた居間を見ていた。確かに日が沈む前にあいつと会った場所、決定的な瞬間を迎えた場所、あの言葉を投げつけられた場所を。誰かが腕を取って立ち上がらせ、どこかへ連れて行こうとするのに抵抗せず、俺はただ、そこだけを凝視し続けた。あの言葉に苛まれながら、ただ、見続けたんだ…。




「これは、ある放火事件の被害者の友人だった男性の証言です」

カッターシャツにジーンズと言うラフな恰好の男は、のほほんとした口調で言って、カセットレコーダーを止めた。四十まではいっていないだろう。三十代半ばのようだが、もっと若いような気もする男だ。名は嶋天四郎と言っただろうか。渡された名刺は、すでに手帳に仕舞い込んでしまった。彼女は後悔したが、そんな事は顔には出さなかった。男は彼女の様子をまったく気にする風もなく、勝手に話を続けた。

「俺は彼から、事件の真相を調べるように言われまして」
「はあ」
「それで、お話を伺いに来たんですよ、二岡さゆ子さん」

彼女は、おっとりと首を傾げた。

「なぜ、わたしに?」
「あなたが、藤村凛さんだからですよ」

最初の挨拶で私立探偵のようなものと名乗った男は、意気込むことなく言ってアイスコーヒーを一口啜った。疎らにしか客がいない喫茶店の中では、静かにクラシックが流れる以外、彼らの会話を邪魔するものはない。その音楽さえ、もう遠くに消えてしまったように、彼女には感じられた。年齢不詳の自称探偵は、そんな事はお構いなしに別の資料を目の前に差し出した。

「これ、放火で亡くなった藤村凛君の司法解剖記録です」
「…私立探偵さんが、そんなもの入手できるんですか?」
「ま、世の中、小説より奇な事は山程ありますからね」

男の返答はにべもない。

「それよりも話を続けましょう。俺に依頼に来た彼は、この事件の翌日から寝込んでしまって、ろくろく事件の続報も知らないまま、結局不登校も重なって引っ越しちゃったらしいんですよ。気が弱かったんですかね?」
「罪の意識かもしれませんよ。…知りませんけど」

言ってから、彼女は慌ててティーカップに手を伸ばした。だが、自称私立探偵は両眼に一瞬鋭い光を宿らせた。彼女は殊更困惑した表情を作った。

「知らない筈ないでしょ、凛君」
「ですから、わたしは二岡さゆ子です」
「ま、それも、あなたの本名ですがね」

男はさらに、別の封筒を取り出した。

「警察が藤村一家について調べた調書です」
「それが?」
「捜査の過程でわかったことらしいですが、藤村夫妻は本当は双子を産んだんだそうですよ」

彼女はティースプーンを取って、くるくると紅茶を掻き混ぜた。渦を巻くミルクティーには、彼女の顔は映っていない。

「彼らは双子を生んで1人は届け出ましたが、もう1人は届け出なかった」
「…なぜ?」

男は笑って答えた。

「さあ、彼らが何を考えていたのかは、彼らにしかわかりませんよ。あなたにだって、わからないでしょう?とにかく、彼らはそうしたんです。当時はまだまだ少子化対策なんてされてなくて、子供を生んだって国から商品券がもらえる時代じゃなかったですからね、面倒だったのかもしれません」
「そう…かもしれませんね」

帰りたいと思いながら、彼女は応じた。どこかで、彼女は自分がこの場から逃げ出せないような気がしていた。

「とにかく。彼らは双子を生み、片方は正規の教育を受け、片方は押入れに閉じ込められる生活を送った。親として最低と言うのは、人間として最低ってことかもしれませんね。こういう人間を理解してやるべきだなんて奴がいるから、人権概念が歪められるんだと思いますよ、ねぇ、二岡さん」
「そうね。それで?」
「ああ、そうそう。それで、藤村君の両親はある時、ちょっとイタダケナイ商売に手を出そうとしたらしいんですよね。なんだか、わかります?児童ポルノです。彼らの戸籍のある方の子供は先程のテープの彼も語っていたように、とっても柔和で、綺麗な顔立ちをしていたらしいですから、きっと、もう片方の子も可愛かったのでしょう。高く売れると踏んだのかもしれませんね。まったく、親になる資格のない連中です。彼らはいかがわしい連中と話をつけて、子供を売り飛ばす約束をしました。…放火事件の4日程前の事です」

店内には、静かに音楽だけが流れている。何と言う曲だったのか、彼女は思い出そうとしたが、果たせなかった。

「先程のテープの彼が寝込んだ理由を罪の意識と仰いましたね」
「そんな気がしただけです」
「いいえ。あなたは、彼がどんな罪の意識を抱いているか知っているでしょう?」

いつの間にか店内の客は彼女と男だけになっていた。窓の外は燃え立つ炎に似た朱色に彩られ、街路樹も、道路を行き交う人々も火を纏っている。彼女は軽い眩暈を覚えながら、ただ、黙っていた。

「テープの中に『廊下の奥から微かな匂い』とあったでしょう。きっと血の匂いだった筈です。藤村家の間取りを見ると、廊下の奥には浴室がありました。そこに、すでに殺された人間の遺体が転がしてあったのではないでしょうか。そう、普段藤村家が人を入れなかったのは、もう1人の子を隠すための措置だったが、あの日は違った。死んだ人間を隠すためだった」
「…」
「テープの彼、凛君の友人が最初に追い払われた時に諦めて帰っていれば。あなただって、お兄さんを殺すつもりはなかった。最初は。だが、どうしてもお兄さんまで殺さなくてはならなくなり、そしてお兄さんとお兄さんの友人との一件の証拠を隠すためには、家を焼かざるをえなかった。そうですね?」

彼女は答えず、ただ、ぼんやりと外を眺めた。徐々に翳り行く太陽光。不意に彼女の顔が歪む。街路樹の下に、彼は立っていた。左右に若い男を二人、従えた恰好で。辛うじて叫びそうになるのを堪え、彼女は私立探偵に向き直った。

「聞き出すより、こちらが目的だったのですね?」
「ま、目的半分と言うところですか」

男は人を喰った笑みを浮かべた。

「調査であなたに行き着いた時、凛君の写真を見比べて、ちょっと仰天しましたよ。二卵性双生児でも、結構似るんですね。彼の両隣に立っている二人が双子なんですが、似てないでしょう?」
「あら、そうなの…」
「他人のような双子なんですよ、中身も外見も」
「わたし達は、似過ぎた双子だったわ」

彼女はどこか脱力していた。永遠に謎のまま、墓場まで持っていくつもりだった想いが緩々と溢れてきた。

「わたしと凛は、同じ顔でした。性格も、声も、何もかも似てました。だから、両親でさえ見分けがつかなかったんです。もっとも、見分けをつけようなどという殊勝な心があいつらにあったかどうか」
「入れ替わって、学校に行ったことがありますね」
「はい。時々。美術部に入ったのも、私が絵が好きだったからです。凛は…テニス部に入りたがっていましたが、わたしのために諦めてくれました。その代わり、私は美術室から太一君をスケッチして凛に贈りました。ええ、そう、凛は彼が好きだったんです。そして、わたしも。だからあの日、彼が訪ねてきた時は追い返せなかった。すでに両親を殺した後で取り返しはつかなかったし、あそこにいられなくなるのも、わかっていました。だから、せめて最後に彼と話したかった…でも、予想外の事が起きた」

ガラスの向こうは、深い闇に包まれている。もう、街路樹も、その下にいた人影も見えない。それでも彼女の声は止まらなかった。

「本当に、予定外でした。あれがなければ、確かに凛は死なずに済んだでしょうね。あの時、わたしは黙って見ていました。凛と太一君を。ただ、扉の隙間からじっと見ていたんです。妬ましくて、悔しくて。だって、凛は男で私は女なんですよ。だのに、太一君はわたしじゃなくて凛と…っ。生まれて初めて同じ顔をした、同じ声をした凛が憎いと思いました。殺してやりたいと。消えてほしいと。太一君が抜け殻のようになって辞去してから、わたしは凛を殺して家に火を付けました。あの空間、あの居間をそのまま残しておく事が出来なかった。あそこを残したら、駄目だったんです。両親に対しては、ほとんど正当防衛だったとわたしは思っています。そうしなければ、児童ポルノに売られ、殺されたのはわたしだった筈だもの。でも、凛は違う…殺意を持って殺したんです。一緒に両親を殺してくれた半身を、わたしは嫉妬から殺したんです。そうして、いつもの様に2階の二人の部屋の押入れの中に入って、そのまま騒ぎが起きるのを待ちました。程なく、消防士や警察がわたしを発見し、ただ黙っているわたしを被害者として取り扱いました。太一君が来たことで、鍵が開いたままになってたせいでしょう、外部からの侵入があったと見なされて。両親がいかがわしい連中と付き合っていたこともあって、わたしは疑われることもなく、そして今の養父母の許に引き取られたんです…」










「げに恐ろしきは女の嫉妬心、か」
「同じ顔だったから、尚更だろう」

二岡ゆさ子が席を立って5分程したところで、2人の青年が天四郎の前に座った。外見だけ見れば赤の他人のように似ていない双子の兄弟、高村楓と高村柊であった。彼らは天四郎の遠縁で、今し方、依頼人を駅まで送って、戻ってきたのだった。

「依頼人には酷な真相ですね」
「そうかな…」

アイスティーを飲み干した天四郎は、小首を傾げた。

「依頼人はすでに真相を看破してる、と俺は思うんだが」

その言葉に、顎で扱き使われた双子は顔を見合わせた。

「彼は当時の記事を呼んで、概要は掴んだんだろう。たぶん、本当に依頼したかったのは、彼女の捜索だ」
「はあ?!んじゃ、俺達の調査は実は無駄足か?」

足を棒にして、藤村凛の友人や事件の関係者を訪ね回り、あの手この手で情報を入手してきたのは、双子である。それが無駄足と聞かされれば、我慢がならない。だが、天四郎はとぼけた顔でそっぽを向く。
そして、彼女が立ち去るまで己の傍らにいた、目の前の似ていない双子にも見えなかった少年の姿が無事にこの世を去っていることを確認して、そっと目を閉じた。

「ま、そういう事もあるさ。世の中、無駄じゃない事の方が少ないんだろうよ、きっと」






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