そこへ到着した時には、もう8時を大幅に過ぎていた。3月の空に限らず、この時間帯では空は真っ黒だ。
全寮制の私学、聖ヒルダ学院は瀬戸内は、宮島にも程近い無人島の上にある。4月からそこへ入学するものは3月中に入寮するのが決まりで、3月最後のこの日にも2人の生徒が学院の船で対岸の港から渡ってきた。
秋月結城あきづきゆうきは黒い髪を掻き上げながら、船着場から校舎に到る道を並んで歩く相手を横目で眺めた。3月の、まだ少し冷たい海風が2人の間を吹き抜け、彼は彼女の横顔を観察する。きつそうな印象の瞳と通った鼻筋は、充分に美少女の称号を得られるものだろう。彼は、彼女の名前が海藤日菜子かいどうひなこで高等部の編入生だということを、船長の点呼で知っていた。

(でも、挨拶もなしだからなぁ…)

内海を穏やかに走る船の中で彼女は黙って文庫本を開いていた。窓の外は暗闇。乗っている生徒は2人。彼の気まずさは推して知るべし。ざわざわと押し寄せる潮騒だけが結城の心細さを慰めてくれていた。
やがて、学院の正門が闇の中に芒洋と浮かび上がった。古めかしい門灯の中で炎がゆらりゆらりと揺れている。木造の扉。その手前には、シスターが1人立っている。石造りの校舎は冷たい月の光の中で、冷然と2人を向かえた。

「さあ、どうぞ。校舎へ」

シスターは2人の姓名を確認することなく、扉を開けて促した。海藤日菜子が先に一歩踏み出して、薄暗い校舎の中へと入っていく。身震いして、結城は肩越しに来た道を振り返った。対岸には、まだネオンが点っているが、それは遥かに遠かった。
新しい生活の始まりに特有の緊張感に包まれながら、結城は扉をくぐった。



聖ヒルダ学院は中央に立つゴシック様式の古城を校舎とし、その両サイドに男子寮と女子寮を併設している。さらに、学園の後方には職員宿舎が軒を連ね、島の丑寅の方角には聖堂が立っているらしい。
結城はスーツケースを引きずりながら、男子寮の廊下を1人歩いていた。自主独立をモットーとする学院の規則で、己ですべきことは全て己ですることになっているのだ。その上、消灯時間も過ぎて廊下は無人だし、部屋はいずれも個室だから案内してくれるルームメイトもいない。彼は鍵の番号と部屋の番号を確認しながら、あてどなく廊下を進んでいた。

(ここが350号室だから…あっちかな)

鍵には403の番号が振ってある。結城は重い荷物を気合を入れ直して引っ張りながら、廊下の角を曲がった。それと、ほとんど同時だっただろうか。角部屋の扉が急に開いて、彼の鼻先をかすめた。

「わっ」

思わず出た声は、高い天井に予想以上に響いて、相手をも驚かせた。扉から出てきた長身の青年が息を呑んだ。

「…ご、ごめんなさい」

慌てて頭を下げる。
相手は大人びた印象だった。たぶん、高等部の生徒だろう。寮の部屋割は無作為らしい。紺のポロシャツに黒のデニムというラフな格好がよく似合っている。彼は一時の動揺を乗り越えると、程よく日焼けした精悍せいかんな顔にすかさず余裕の笑みを浮かべた。

「…新入生?ずいぶん遅くに来たんだね」
「あ、はい。えっと…」

相手が穏やかな表情なので、これ幸いに結城は部屋の場所を尋ねることができた。

「あの、先輩。403号室ってこの奥で良いんですか?」
「403?ああ、それなら奥に真っ直ぐ」

心優しい先輩が、後ろ手に扉を閉めて指さした刹那。

「おい、いつまで待たせる気だよっ!」

いきなり背後から投げ付けられた身に覚えのない、小声だが容赦ない叱責に、結城は飛び上がった。恐る恐る振り返ると、角を曲がって現れたシャレた恰好の、やはり先輩らしき人が、面食らった顔で彼を見下ろしている。
ポロシャツの先輩が深々と溜め息をついた。その目許が少しだけ、あとから現れた人物に似ている。

かえで、タイミング最悪」

わずかに茶色い髪をかき上げる先輩に対して、楓と呼ばれた青年はムッとしたように眉をひそめた。

「お前が遅いからだろ。ところで何。こいつ新入生?」
「今日着いた最後の子みたいだよ。ねぇ」

そう言って、彼は結城に向けて首を傾げた。結城はすばやく両者に礼をする。

「秋月です。4月から中等部の1年です」
「俺は高等部の高村しゅう。で、こっちの居丈高なのが」
「誰が居丈高だっ」
「声が大きいって。…こっちが弟の楓。2人とも4月から3年」
「2人とも?…あ」
「そう。双子なんだ。あんまり似てないけどね」

並ぶと少し身長差があった。体格も柊の方が良さそうで、スポーツマン風だ。軟派そうに見える楓はさしずめビジュアル系だろうか。それでも、似た雰囲気も少しはあって、結城は失礼にならない程度に2人を見比べた。
そんな印象を知ってか知らずか、柊はおもむろに彼に尋ねた。

「あのさ、寮則はもう知ってる?」
「はい…入学案内に書いてあったのは読みました…けど」
「じゃあ、さ」

楓が面倒くさそうに扉を開け、いきなり結城のスーツケースを柊の部屋に引っ張り込んだ。否やを言う暇こそあれば、両側から腕を掴まれて、部屋とは逆方向に連れ出される。

「原則、消灯時間以降は部屋を出てはいけないという規則、知ってるよね?」
「え、あのっ」
「目撃者の口を封じるには、共犯者にするのが一番なんだって。ごめんね」
「は!?」





2人の先輩に引きずられるようにして、男子寮2階の廊下の奥にある扉を抜けると、月光の中で背の高い木々に薔薇が咲き乱れていた。その迷路のような生垣を抜けていくと、やがてポッカリと広い空間に出て、そこではすでに3人の生徒が集まっていた。

「遅かったじゃないか、柊」

最初に口を開いたのは、黒いTシャツに身を包み、銀縁眼鏡をかけた人物だった。集まりの真ん中に置かれているテーブルに頬杖をついて、3人を出迎える。口許には皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。

「ところで、その子は?」
「新入生だよ、智臣ともおみ

柊が、顔を合わせてから強制的に連れてくるまでの経緯を手短に語ると、智臣の視線が楓に冷ややかに降り注いだ。鼻白んだ楓がそっぽを向く。しかし、彼は口に出しては、まったく別のことを語った。

「そうか、新入生か。明日から我々の後輩という訳だ。それならば歓迎するよ。我輩は伊集院智臣。彼らと同級生だ」
「初めまして…秋月結城です」
「アキヅキユウキ。ふむ。詩的な名前で結構。我らが『3月のお茶会』連盟へようこそ」

彼は芝居がかった調子で両手を広げた。そして、地面に座り込んでいる他の2人を紹介した。彼らは手にしていたティーカップを掲げて歓迎の意に代えた。

「高等部の梶谷と新入生の海藤」
「海藤?」

その苗字には聞き覚えがあった。結城は明日からの同級生の顔を確認する。同じ船で学院にやってきたあの美少女と、どことなく似ている。

「船で一緒になった高等部編入の人と同じ苗字だけど」
「ああ。それ、たぶん姉さんだよ」

そう答えて彼は結城を手招いた。断る理由もないので、誘われるままに隣に腰を下ろす。
いつの間にか柊と楓は智臣と話し込んでいて、梶谷という先輩は読書に戻っている。どうやら、この集会は連盟とはいうものの、皆で集合して何か具体的な活動をする訳ではないらしい。もしかしたら、ただの規則破りが同じ場所で夜更かししているだけなのかもしれない。

「ボクは海藤誠人せいと。誠人で良いよ。よろしく」
「こちらこそ、よろしく」

童顔の誠人はにっこりと笑うと、傍らのボックスを開けて予備のティーカップに紅茶を注ぐ。綺麗に切り揃えられた前髪が揺れ、ふぅわりと心地よい香りが漂った。寮の規則がやけに細かい聖ヒルダ学院だが、意外と私物の持ち込みには寛大だ。もしかしたら、これらのティーセットは誠人が持参したものなのかもしれない。

「誠人はいつ来たの?」
「中学の卒業式の翌日。ここ、父の母校だからいろいろ噂を聞いててね。だから姉さんと違って、早く来たかったんだ。結城は随分遅かったけど、何かあったの?」

受け取った紅茶の、わずかな苦味がさわやかに広がる。くどくない味わいが3月の夜風に心地よい。

「うーん。何という訳でもないんだけど、場所が場所だし、ついギリギリまで先延ばしにしちゃったんだ」
「…確かにね、離島だし、校舎は古めかしいし。そもそも、ここを受験したのは?親戚に卒業生がいるとか?」
「祖母が」

そう言った結城の脳裏に、元気いっぱいの老婦人が浮かぶ。卒寿目前の祖母は、とてもそんな歳には見えない若々しい顔にチェシャ猫も怯えそうな悪魔的な微笑を浮かべて、彼の進路に口出ししたのだ。

「卒業生じゃあないと思うんだけど、ここに入れって…それで、まあ、全寮制も面白そうかなって軽い気持ちで受験したんだけど」

まさか受かるとは思わなかった、という本音は飲み込んだ。聖ヒルダは決して生易しい学校ではない。入試の倍率も偏差値も、全国トップクラスだ。結城としては、今後の学校生活での一番の不安要因は勉学だったりするのだが、さすがに初対面でそれを言うのは恥ずかしかった。

「ふぅん。じゃあ、この学校の変な話とか、聞いたことない?」
「変な話?七不思議とか学校の怪談とか?」
「そんなもの。ボクが父に聞いただけでも七つどころじゃないけどね。知らないなら教えてあげる。例えば…」

小首を傾げながら、誠人が笑った。

「夜の薔薇園は3月にしか入れない、とか」







4月1日の朝は、睡魔との戦いで始まった。何しろ、日付が変わる直前まで薔薇園でおしゃべりに興じていたのだ。ベッドにもぐったと思ったら叩き起こされた、そんな感じだ。結城は冷酷な目覚し時計を止めて、寝ぼけながらやっとの思いで身支度を整えた。
部屋を出ると、同じ制服に身を包んだ生徒たちが食堂に移動中である。その中に昨夜の顔を見つけて、結城はふたたび欠伸を噛み殺した。

「おはよ、誠人」
「おはよう。眠たそうだね」
「お互いさま」
「あはは」

2人は肩を並べて歩き出す。途中、何人かの生徒が誠人の肩を叩いて挨拶し、結城に気付くと自己紹介しては足早に去って行った。入寮の早かったもの同士、彼らはすでに顔見知りなのだろう。

「食堂って混雑する?」

昨夜2人の先輩に引きずっていかれた階段を下りて、廊下の突き当たりに足を向ける。

「人数分の席は充分にあるから大丈夫。ただ、料理は早い者勝ちだけど」
「そうなの?ビュッフェ形式って書いてあったと思うけど」
「人気のメニューは、多めに作ってあるけど、品切れするんだよ。育ち盛りの集団だからね」

他人事のように言って笑う誠人に、思わずつられて結城も笑う。
彼は何となくホッとしていた。昨夜、強制的に連行された時には2人の先輩の身勝手に不快感もない訳ではなかったが、今思えば初日に知り合いが誰もいないという状況を免れたのは彼らのお陰だ。口封じは口実で、もしかしたらそこまで考えてくれていたのだろうか。
そう考えながら、廊下を曲がった時。

「…あ」

誠人が不意に足を止めて、結城の肩を掴んだ。

「え、何?」
「ホラ、あれ見て!」

誠人が廊下の一点を指さす。
そこには扉の絵があった。額縁入りの絵画ではない。薔薇園に通じていた昨夜の扉が、石の壁に直接描かれていた。

「あれが?」
「あそこ、昨夜の薔薇園の入り口じゃない?」
「ええっ?」

結城は瞬きして、廊下を振り返り記憶を手繰った。そして、驚愕に言葉を失った。間違いなかった。昨夜、彼らが出入りしたのは、確かに絵が描かれている辺りだ。誠人がやや興奮したようにうなずきながら囁く。

「言っただろ。夜の薔薇園には3月しか入れない、という噂があるって」
「そんな」

しばし絶句して立ち尽くす。傍を、食堂に向かう生徒たちが続々と通り過ぎていく。
2人は意を決して、絵に近づく。ところが、壁に触れようとした2人の手を、両側から伸びてきた手が掴んだ。ぎくりとして振り返ると、結城を薔薇園に連れて行った柊と楓が、面白がっているような呆れたような、微妙な表情で立っていた。

「せ、先輩…」
「何してんだよ。飯食いっぱぐれるぞ」
「特に秋月は到着が遅くて夕飯もとってないだろう?」

言われて、2人の食べ盛りの腹の虫が鳴く。羞恥に思わず頬が熱くなった結城の隣で、それでも誠人が何とか抗弁する。

「でも、この絵!これって…」

しかし、先輩の言葉は冷静だった。

「ここはそういう学校なんだから、いちいち深く考えないこと。ドツボにはまるぞ。それよりメシだメシ。ほら、食堂へ行くぞ!」





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