気が付くと、わたしは何故か、講堂に一人でぽつんと座っていた。
吹奏楽部が生演奏をした筈のステージは既に緞帳が下ろされ、喧騒も人影もなく、二階席の窓からもほとんど陽光が差し込まない。腕時計を確認する。時間的に、先程までこの講堂で卒業式が行われていたのは間違いない筈だ。何故誰もいないのだろう。まるで世界にわたし一人が取り残されたような気分になって、わたしは慌てて周囲を見回して、はっと気付いた。
卒業証書がない!
もう一度、周囲を見回す。床の上を見る。どこにもない。落ちてもない。どうして。
その時、妙に安心感を誘う声が聞こえた。

「先輩。阿部先輩」

振り返ると、講堂の入り口から彼が顔を出していた。
きめ細かい肌と、光線の加減で茶色と黒の間を行ったり来たりする柔らかい髪、二重の涼やかな目許、整った鼻筋。厚過ぎず薄過ぎない唇には、穏やかな微笑が浮かんでいる。生徒会の後輩。嶋天四郎君。
嶋君がのんびりと歩いて、わたしの方に近付いてくる。不意に講堂全体が明るくなったような気がした。彼がいると、いつもそうだ。特別何かをする訳じゃないのに、空気そのものをあたたかくする。それはきっと、彼がいるだけで誰もが心穏やかになるからだ。だから、先程までひどく心細かったわたしは、不覚にも泣きそうになってしまった。

「どうしたんですか、先輩?もう卒業式は終わりましたよ」
「そう、だっけ?」

涙こそ流さなかったけど、わたしは鼻声になっていた。

「でも、卒業証書がないの。わたしの卒業証書…」
「ああ、それならここにありますよ」

春の日差しみたいな、のほほんとした口調の彼は、手にしていたものをわたしに差し出した。それは赤と茶色の混ざったような色の、一本の筒。卒業生が一人一人貰うもの。
それを手に取って、蓋を開ける。中には丸められた紙が一枚。卒業証書だ。驚いて、彼と証書を何度も見比べる。日光浴で機嫌が良くなってるネコみたいな彼は、小首を傾げて私を見ている。

「ど、どこにあったの、これ?」

だが、彼はその質問には笑って答えず、隣良いですか、と聞くだけ聞いて、わたしの隣に座った。
距離にして10センチメートル。答える間もなかったわたしは、しばしの動揺の後、とりあえず筒に蓋をし直した。そうして、今まで何度彼と同席しても、隣に座った事はなかったことに、初めて思い至った。学年が違うから、教室が同じになる事はなかったし、生徒会ではわたしは会長の高阪君の隣が定番だった。嶋君の隣はいつも会計の小林さんだった。
そんなことを考えて緊張してるわたしの隣で、嶋君は暢気に緞帳の方を向いている。沈黙に耐えかねて、わたしは口を開く。

「あ、ねぇ」
「はい?」
「小林さんとか、高阪君は?」

ああ、と彼は小さく頷いた。

「一葉だったら生徒会室だと思います。高阪先輩は…どうかなぁ」
「そっか。もしかして、今って集合写真撮ってる所?」
「いえ、それはもうちょっと後ですね」

彼はお洒落な腕時計を確認する。以前、ひいおじい様にもらったと言っていたブランド物の時計。本来だったら高校生には不似合いなのに、彼が付けていると、それが当然のような気がしてくるから不思議。それは彼が付け慣れているから、と言うより、彼自身が高校生と言う制服に不似合いなのかもしれない。彼の横顔には十七歳の数字は似合わない。

「でも、あと十五分くらいかなぁ」
「遅れると、怒られちゃう…よね?」
「そうですねぇ」

時計から視線を上げた彼が、こっちを見た。どきっ、とした。彼の鳶色の瞳には、初めて見る真剣な光があった。いつだってのんびりとして、慌てず騒がず、自信があるのか鈍いのか、まったくわからない彼、緊張感とか深刻さとか、そんなものに無縁な彼の、妙に真剣な表情。
わたしは思わず目を逸らした。

「ねぇ、先輩」
「…何?」

強く筒を握り締める。

「そろそろ、行きませんか?」

わたしは、さらに強く握る。
再び不安が込み上げてきた。心細さ、切なさ、哀しさ。いろんなものが一気に足元からせり上がってきて、わたしの中をいっぱいにする。目頭がじんわりと熱くなる。そうして、わたしはまた混乱の中に落ち込む。
どうして、なぜなの。嶋君の言ってる事に、何故こんなにも苦しくなるの。どうして。どうしてなの。卒業したんだから、わたしはもうこの講堂を出なくちゃいけなくて、集合写真の撮影場所に行って、皆と一緒に笑って写って、そして後輩達に後事を託して泣いたり笑ったりしながら正門を出ていくしかないのに。どうしてこんなにも行きたくないの。
ぐるぐる廻る思考に翻弄されながら、それでもわたしは必死に涙を堪える。泣きたくない。泣くためじゃない。ただ、行きたくないの。

「阿部先輩、さあ、行きましょう」

いつの間にか立ち上がった嶋君が、私に手を差し出す。いつにもまして優しい笑顔。それは、今日が卒業式だから?それとも…。
わたしは躊躇し、彼を見る。きっと今、ものすごく情けない顔をしている。でも、彼の表情は変わらない。笑ったり、驚いたり、困惑したりしない。包み込むような優しさに、さり気ない微笑を添えて、わたしに手を差し出している。
それでも、わたしは立ち上がれない。

「…まだ心残りがありますか?」

静かに放たれた問いが、さらにわたしの思考を掻き乱す。一層苦しくなる。
心残り。未練。そのせいで、わたしは一人でこの講堂に座り込んでいたのだろうか。三年間慣れ親しんだ講堂に、校舎に、この学園にわたしは一体何を。今日、この日に旅立たねばならない、この小さな世界に。
目の前に差し出された掌を見つめる。生命線が長い。荒れた所もない。すらりと長い指。この手を取ったら、わたしはここから立ち上がれるのだろうか。
そうして、この学園を去るのだろうか。永遠とも一瞬とも思える三年間を終えて。そして。
わたしは、恐る恐る手を伸ばし、そして彼の手を握れずに終わる。

「ご、ごめん、わたし…」
「阿部鞠子先輩」

初めて、彼は私のフルネームを読んだ。一音一音、確認するように。その響きに、息が詰まった。

「心残りがあるなら、言ってください」
「…嶋君」
「だって、行かなきゃならないでしょう?」

そう言って、中途半端に差し出されたわたしの手を彼が握る。想像したよりずっと柔らかい感触、心地良い体温。ゆっくりと手を引かれて立ち上がる。わたしの身長は、彼の肩の辺りまでしかない。彼を見上げ、そして顔を伏せる。促されて、手を繋いだままゆっくりとゆっくりとドアに向かう。無言の時間。右足を上げて下ろすまでが、とても長い。スローモーションの世界。すべての瞬間を記憶に焼き付けるように、一歩、一歩。ドアまでの短い時間を引き延ばしたように。
わたしは意を決して顔を上げる。まるで計った様に嶋君が振り返った。穏やかな笑顔。

「…第二ボタン、頂戴っ」

自分の声だとは思えなかった。きっと、誰かがわたしの口を借りて、身体を借りて喋っているんだ。そう思った。そう思わなければ怖かった。だって、わたしは知っていたから。わたしの気持ちが一方通行だってこと。だから、お願い。これは違う誰かだってことにして。
わたしの目の前には、ぽっかりとドアが開いていた。

「良いですよ。第二ボタンですね」

竦んだように立ち尽くすわたしの目の前で、彼はボタンを引き千切り、ポケットから取り出したコサージュをわたしの胸に付けた。ボタンは右手に握らせてくれた。喜ぶよりも驚いた。くれるなんて、思わなかった。だって。だって。わたしは知っていたから。彼がいつも見ていた彼女の事を。傍若無人で我が儘なのに、ちっとも憎めなかった彼女の事を。
どんな表情をしたら良いのかわからずに、呆然と彼を見る。それに微笑で応えて、彼はわたしに道を譲った。真っ白い陽光が降り注ぐ外に向けて。わたしの耳の奥で、聞き馴染んだ校歌の伴奏が微かに聞こえた。もうきっと、二度と歌う事のない校歌が。
わたしは右足を踏み出す。胸を張って。右手のボタンに賭けて。みっともない卒業生にならないように。左足を踏み出す。嶋君の視線を感じる。次いで右足。いつしか耳の中でも頭の中でも校歌の大合唱が反響し始めていた。視界が潤む。今度は左足。それでもわたしは胸を張って、涙など零さない。最後の一歩をドアの外に踏み出す。
太陽の光を直接浴びた瞬間、全身にあたたかいものが溢れて、わたしは上を向いた。全身の感覚が拡散していく中、揺れる視界の向こうに青い空が見えて、優しい言葉と何かが落ちた音が聞こえた。

「阿部先輩、一年遅れの卒業、おめでとうございます」



…目の前に残されたボタンと筒と青いコサージュを拾い、嶋天四郎は安堵の吐息を漏らした。時計を見れば既に集合時間を過ぎている。さぞやクラスメート達がヤキモキしているであろう。
彼は胸にコサージュを付け、ボタンをポケットに突っ込んだ。この状態で撮影場所に行けば、様々な憶測が飛ぶであろうことを想像して、彼は小さく笑った。だが、仕方ない。これは亡き前生徒会副会長阿部鞠子に渡したものなのだから。今更誰かに譲る訳にも、学ランに付け直す訳にもいかない。
校舎の向こうから、喧騒が聞こえる。卒業生と在校生の、最後の会話の漣。もし阿部鞠子が交通事故に遭わなければ、一年前の今日、天四郎は第二ボタンを渡す事になっていただろうか。今、微かに聞こえる漣のどこかで。卒業式当日の事故。彼女はさぞ思いを残しただろう。ボタンをなくした自分の学ランを見下ろす。彼女の未練、彼女の心残り。その思いを果たさせる事。それが必要だった。
一年遅れの卒業式。
天四郎は思い立って筒から取り出した卒業証書を広げた。そこには間違いなく彼の名前が書かれていた。つい先日、生徒会長の任を果たし終えた、嶋天四郎の名前が。





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