――― これには、(えにし)がないね。

その言葉を他人事のように思い出す。彼を覗き込む、深い闇のような目。そこに映ったのは一体どのような姿であったのか。確かめる術はない。ただ、俺は索莫たる生き方を選んだのだ、という思いが脳裏をよぎった。後悔はしない。
……それでも。

「わたくしのこと、愛してくださっていた?」

十六で洋行を決めた彼女の幸福を思わぬことは、ない。



Hello,again






斎賀邸の庭でぼんやりと季節外れの桜を見上げていた高村(あざみ)を、軽い衝撃が襲った。ぶつかってきたそれは、柔らかな温もりである。彼は小さく息を吐いて、自分の背中にしがみ付いている相手を、肩越しに見た。結い上げられた髪に、はらりと薄紅が一枚留っている。

「来ていたのね。捜したわよ」
「お嬢さん」
「どうして、わたくしの部屋に挨拶に来ないの?いつでも大歓迎だと言ってある筈よ」

斎賀邸の長女、琳子(りんこ)は溌剌とした栗色の瞳に若干の非難を込めて彼を見た。十六になる令嬢は、しかし、相変わらず子供のように闊達で、淑やかさとは無縁である。薊は頭を振った。

「お嬢さん、また叱られますよ」
「あら、薊さんは叱られるのが怖いの」
「怖いですね」
「まあ、臆病ぶって」

肩に掛かる手を優しく、さり気なく解いてから、琳子に向き直る。薊は日本人には珍しいくらいの長身だから、随分と上から見下ろす恰好になった。まだ珍しい洋装に身を包んだ令嬢はほっそりとした腰に手を当てて、悪戯小僧のような愉しげな表情でくるりと一転してみせた。白いスカートが風を孕んで、舞う。

「いったい、女学校では何を習っているんですか。余所の男に飛び付くなんて、はしたないですよ」
「あらあら。薊さんの方がわたくしより余程お嬢様みたいな事を言うのね」

軽やかに笑い飛ばして、彼女は薊の腕を引いた。まるで頓着がない。

「ねえ、それよりもわたくしの部屋に行きましょうよ」
「それは、ちょっと」

薊が斎賀邸に出入りできるのは、骨董商の父が出入りしているのに、荷物持ち代わりに連れて来られているからだ。斎賀家と高村家はあくまでも上得意の顧客としがない商家。まして斎賀家は男爵位を持つ華族の家柄である。男爵令嬢の琳子が、こうして薊に親しく話しかけるだけでも問題だ。それなのに、どうした訳か琳子は薊が気に入ったらしく、父の使いなどで顔を出す度に、あれこれとまとわりついてくる。

「拙いですよ。また、エツさんに叱られて…」

半ば引き摺られるようにして母屋まで連行された薊が指摘するまでもなかった。廊下をやってきた古参の女中は、二人の有様に目を剥いて、それから眦を吊り上げた。琳子の母の代から使えるエツは、婦女子たるもの気安く男と口を利くべきではないと、琳子に説教して、二言目には、奥様が十六の頃にはこんな不始末はありませんでしたと、前掛けで目頭を押さえるのが常だった。もちろん、薊に対してはもっと明確に小言を言う。

「お嬢様、またその様なはしたない真似を。しかも、それは叶野様の御令息とお会いする時のために用意した…」
「あら、良いじゃない。どうせ崇広さんとお会いするのなんて、二週間も先でしょう?それまで箪笥の中に仕舞っておくなんて、勿体ないわ。薊さんに見てもらう方が、ずっと有意義」

途端にエツの険悪な視線が薊に向けられた。まるで、琳子が手に負えぬのはお前のせいなのだぞ、と言わんばかりだ。薊は首を竦めた。

「勝手に庭に出られては困ります」
「はあ…一応、男爵の許可は頂いたのですが」

ますます女中の表情が険しくなる。それは当然ながら男爵に対する怒りではなく、男爵の名を出した薊に対する怒りであろう。斎賀家の主人が認めた事とは言え、骨董屋の次男坊風情が客人面をする事が、古参のエツには許せないのだ。もっとも、それが自己中心的な階級意識からではなく、可愛いお嬢様の将来を慮っての事と理解しているだけに、薊としては申し訳なさが先に立つ。琳子の言動に接する度に、いったい何故この人は自分に構うのだろうかと疑問に思ってしまう為に、余計だ。
ところが、肝心の琳子はエツの心配も薊の困惑も一向に意に介する事なく、けろりとした顔で彼の腕を掴んだ。エツがさらに目を吊り上げた。

「お嬢様!」
「行きましょ、薊さん。ねぇ、お父様は居間かしら?」
「……はあ、たぶん」

絶句するエツに、薊は神妙な顔で目礼してから、琳子に引き摺られるまま廊下を歩いた。風に乗って話し声が聞こえてくる。やはり、斎賀男爵は居間で父の持参した品物を吟味しながら、談笑しているらしい。

「……お嬢さん、居間はそっちじゃありませんよ」
「わかっていてよ」

男爵の笑い声が聞こえる。どうやら機嫌が良いらしい。薊は首を傾げ、それから小さく肯いた。先刻、エツの言葉に現れた叶野なる姓には聞き覚えがある。確か紡績業で財を成し、帝国議員にまでなった人物ではなかったかと思う。薊は、隣ではしゃぐ琳子の横顔を仔細に観察した。女学校の間に結婚が決まり、学校をやめていく令嬢は少なくないと以前に彼女は語っていた。居間を通り過ぎた辺りで、少し前に父が入手したものだと、廊下に飾られた油絵を琳子が指差した。日本の街並みを小さく切り取った作品だった。わたくし、日本画の方が好きなのだけれど、と頬を膨らます琳子に、薊は無言のまま曖昧な微笑で応えながら、静かに身を離した。
窓からは季節外れの満開の桜が見えた。





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