霊験屋。
それは決して公けになることのない商い――――。



怪談






……車夫は不審に思いながらも、夜更けの道をひた走った。人力車くるまの仕事は客を目的地まで届けることだ。こんな深夜に女一人、それも寺に行ってくれなどと怪しいことこの上ないが、断る理由にはならない。客を届ける。それ以上の詮索は無用。車夫は黙々と足を動かし、寺に向かう。いつもより人力車が軽いように感じるのは気のせいだろうか。そうだ、気のせいに違いない。まだ街灯もない夜道だから、そんなおかしなことを考えるのだ。車夫はさらに足を速めた。いくら世の中が落ち着いているとは言え、やはり夜道は安心とは言い難い。早く送り届けて、帰ろう。車夫はひたすら走って、走って、走った。
そして、ようやく寺の門前に辿り着いた。人力車は軽かったのに、おかしな具合に身体が疲れていた。きっと緊張のせいだろう。さあ、早く帰ろう。車夫は足を止め、客を振り返った。

「お客さん、着きましたぜ」

だが、返事はなかった。女がいない。車夫はどきりとした。灯を近づけて、客が座ったはずの場所を照らした。
そこは、ただただ、しっとりと濡れて黒々としていた……。





語り終えた花岡七緒は、ほうっと一息ついてから同席者を見回した。真ん中に蝋燭が一本点されただけの部屋には彼女を含めた四人が座っているが、明かりが小さすぎて他の三人の表情は見てとれない。彼女は薄闇にまぎれて首を傾げた。やはり人口に膾炙した怪談では彼らを驚かせることはできなかったのだろうか、と残念に思う。しかし七緒自身は同席者たちを驚嘆させるほど奇妙な体験をしたことが、ほとんどない。そもそも今宵の同席者たち、若くして多くの経験を積んでいる三人、高村葵、嶋英七郎、海藤月子を驚倒させるような怪奇な体験をしている者など滅多にいないだろう。
なぜなら、彼らは霊験屋だからである。
霊験屋。それは決して公けにされることのない商いであり、ヒトでありながらヒトでないもの達との交渉を生業とする者を指す。高村家、嶋家、海藤家の三家を総称した呼び名である。七緒が彼らの存在を知ったのは、たんなる偶然であった。彼女の生家である花岡家は地元でこそ有力だが帝都に置いては無名のいたって平凡な本陣であり、さる事情から高村家に引き取られるまでは七緒もまた怪奇とは無縁の人生を歩んできたものだった――と、本人は今でも固く信じている。

(しかし……何なのじゃ、この沈黙は)

霊験屋相手の怪談語りである。悲鳴や絶叫を期待していたわけではない。苦笑と共に受け流されるかとは思っていた。ところが、語り終えてもちっとも反応がない。そこにわだかまるのは深い沈黙である。七緒は徐々にいたたまれなくなった。もしかして、作り話はご法度だったのだろうか。堂々と語っておきながら、彼女はこの怪談が作り話だろうと思っていた。

「皆どうしたのじゃ」

沈黙に耐えかねて七緒は同席者に訊ねた。右手に座っていた葵がごそりと動き、口を開いた。

「今のが、怪談?」
「うむ」
「どこが怖いんや?」

向かいに腰を下ろしていた英七郎が当惑気味に聞いてくる。

「だって、呪われたわけでも祟られたわけでもないんやろ?怖いか?」

七緒は微妙な気分で沈黙したが、どうやら葵も同感らしい。はっきりとは見えないが、首を傾げているらしいことは唸り声でわかった。どうやらこの怪談の怖さが彼らには理解できないようだ。

「その車夫は夜に幽霊を乗せただけだろ。怯える理由がない。そりゃあ、親切に乗せていったのに黄泉に連れていかれたとか言うなら震え上がるのもわかるが」
「そうやなぁ。もしくは、崇り殺されたとか言うならわかるんやけど」

二人で納得している。さすが霊験屋と言うべきか。いやはや、彼らの恐怖心はどうしたら刺激されるのだろうか。七緒には見当もつかない。
その時、左手に座ったままずっと黙り込んでいた月子がひっそりと呟いた。

「怖いわよ、この話」

そくそくと背筋を凍らせるような密やかな声にも、男二人は納得がいかないらしい。

「どこがやねん?」
「ただ幽霊に会っただけだぜ?」
「幽霊かどうかも確認できてへんし」
「土座衛門になり損ねた生者ってこともありうるだろう」

英七郎と葵が不満げに反論する。言われてみれば、その通り。これが怪談であるという前提があるからこそ、聞く者は消えた客を幽霊だと思うのだが、そうだと言う確証はない。
それにもかかわらず。

「馬鹿ね、怖いわよ」

月子はごそごそと動きながら震える声で文句を言う。これまた予想外の反応に七緒は驚いて月子の方を見た。本当に怖がっているようだ。

「まさか七緒ちゃんが冒頭からこんな怖い話するとは思わなかったわよ」
「だから、どこが怖いんや。こんなん日常茶飯事の話やないか」
「祟らない亡霊なんか、火事に比べたら可愛いもんだろ」

どうやら霊験屋にとって物の怪との遭遇はその程度の話らしい。これでは一般に知られている怪談など恐ろしくもあるまい。今度、怪談をしなければならない時には異国の怖い話でも調べようか、と七緒はまったくどうでもいいことを心秘かに考えた。

「確かに幽霊程度、怖くはないけれど……」

月子の反応はその斜め上を行った。異国の話でも幽霊が出てくるだけでは駄目なようだ、と頭に叩き込み直す。しかし、それなら月子は何に怯えているのだろう。葵も不思議に思ったらしく身を乗り出す気配がした。

「どうした、月子?」
「本当に怖くないの?」
「はあ?」
「踏み倒されたのよ?」

七緒は瞬きした。月子の言葉を反芻する。踏み倒されたのよ。確かにそう言ったように思うが、何のことだろう。彼女は首を傾げた。意味がわからない。
残念ながらそう思ったのは、七緒だけだったようだ。

「うわあ!そういう話やったんか!」
「怖い…っ!それはすげぇ怖い!」

得心がいったとばかり、男二人が叫び出した。それも尋常ではなく怖がっている。大騒ぎだ。七緒は呆然として月子の方を見た。

「七緒ちゃんが怪談の名手だとは思わなかったわ」
「……褒められたのは嬉しいのじゃが」
「ああ、もう。久々に寒気がしたわ。くわばらくわばら」

何が、という疑問を七緒が口にするよりも早く、葵と英七郎が語り合う。

「そうか、代金を踏み倒されたって話だったのか!」
「無賃乗車!うーん、恐ろしすぎて鳥肌立ってもうたわ」

唖然としている七緒をそっちのけで、三人は大盛り上がりである。ただ働きとなった車夫について、彼らは真剣に語り合っている。曰く、稼ぎは大丈夫だったのか、親方に叱られなかったのか、不憫でならない。
誰でも知っている怪談も、霊験屋にかかると変な方向に解釈されるらしい。と言うか、彼らにとって幽霊に遭遇するよりも代金を踏み倒される方が深刻な事態のようだ。さすが、遥か昔から連綿と公けにできない商いで生きてきた一族だけある。七緒はひとつ頭を振ると、そっと部屋を抜け出した。





廊下に出ると、葵の叔父にあたる高村薊がちょうど玄関に立っていた。片手に風呂敷包みを持っているところを見ると、汚れものを実家に持ち込みに来たと見える。この時代には珍しいことに、薊は不惑の今も独身である。

「おう。元気か、嬢ちゃん」
「お陰様で」

七緒は彼の来訪を家主に知らせようと踵を返しかけたが、ふと思い止まって下駄を脱ぐ彼を振り返った。

「薊どの」
「あ?」
「薊どのは、何か怖いものとかこととか、おありか?」

彼は少しの間、意図を図りかねるように七緒を見ていたが、やがて屈託もなくうなずいた。

「そうだな。少々手間取った祓いの代金を踏み倒されそうになった時は、ちょっと怖かったな」

なぜ、そんなに金銭に恐怖を覚えるのだろう。七緒は何となく釈然としない気分のまま、今度こそ家主に薊の来訪を知らせるため廊下を引き返した。
彼女が、彼らの持つ恐怖心について、その本当の理由を知るのは、もう少し先の話である。







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