「これですか?」

高村薊は眼前に置かれた櫛を一瞥した。実に美しく蒔絵が施されたそれは、哀しい光を放っている。彼は直接触れることはせず、横目で同行者の嶋英七郎に目配せした。洋間に和装で溶け込んでいる青年は、それに目線だけで答える。今のところ言葉は不要であった。

「引き取るのは、この櫛だけでよろしいんですか」
「…ああ」
「本当に?」

薊が念を押したためであろう、それまで無愛想に黙り込んでいた屋敷の主、徳田がようやく顔を上げて彼らを見た。値踏みするような、疑うような眼差しだった。徳田は紡績関係の会社を経営する、不惑の資産家だ。本来なら、付き合うのは大きな権威に通じた骨董商で、薊たちとはほとんど一生縁がないのが普通だった。もっとも、薊の胸中など興味ない様子で、英七郎はそっと顔を伏せて櫛を見ている。蒔絵の輝きは、相変わらず哀しみにくれているようだ。
徳田が疑念にとらわれている理由を、薊はよく知っていた。ある骨董屋が問題の櫛を含めた女物の小物を引き取るように要請され、実際に引き取った。ところが、そこの店主はおもむろに櫛だけを返品したいと言い出した。徳田は怒って売り払った一切を回収して今度は別の者に売った。櫛もそうだし、品そのものは良い出来のものばかりなので、店側も喜んで引き取った。それなのに、これまた数日と経たずに返品された。その後、三つの店に渡したが、その度に櫛は帰ってくるのだそうだ。やがて噂が広まり、徳田家の櫛は同業者の間で取り扱いを拒む者が続出した。何でも、櫛を引き取ると幽霊が出ると言うのである。

「引き取れるのか、引き取れないのか」

徳田の言い方が、噂の信憑性を裏付けていた。誰も引き取らない、誰も引き取りたがらない、蒔絵の洗練された櫛。

「俺なら大丈夫や」

英七郎は小声で薊に告げ、手を伸ばして櫛を取った。徳田がぎょっとしたように身動ぎした。どんな品物でも引き受けてくれるとの評判を知って話を持ちかけてきたのだろうが、それにしてもあまりに無造作な態度に驚いたらしい。薊はすかさす微笑を浮かべた。彼は長年この仕事を手伝っていて、こうした場合の対応も心得ている。とにかく、客を納得させること、そして相棒に興味を持たせないことだ。

「櫛を引き取るだけでいいんですね。他に鏡台とか、そういった物はなく」
「ああ、手許に残っているのはそれだけだ」

語尾に、わずかな嫌悪感が混じったことを、薊は見抜いた。英七郎が目線だけ上げて徳田を見た。青年の瞳には無邪気に楽しむような光が宿っており、それはある種の冷酷さを思わせた。英七郎の性質が何かを嗅ぎ取ったのだろうか。それも、陽とは真逆のものを。薊は冷静に同席者を見守ったが何も言い出しそうになかったので、早々に切り上げることにした。どうせ、今聞いても答えないだろうと思ったからだ。

(霊験屋は商い、か)

今日の彼らは骨董屋、どちらかと言えば古道具屋だが、あくまでも品物を取り扱いに来ている業者との建前だ。霊験屋として来たわけではない。霊験屋として依頼されたわけではない。だから、仮に霊験屋としての感覚が某かの兆候を感知しても、わざわざ口に出す必要はないのだ。霊験屋は商い。商売に過ぎない。無償の善行ではないのだ。

「それでは、この櫛の買い取りですが」
「ああ。いや、いい」
「いい、とは?」
「金は要らん。引き取ってくれたら、それでいい」

徳田がさりげなく顔を逸らしたことで、薊も漠然と不安を抱き始めた。櫛に何か曰くがあるのは間違いないだろう。骨董屋は多少の奇妙になら慣れている。そうでなければ古い記憶を宿したものを扱う商売など、務まらないのだ。だが、その骨董商が何人も逃げ出し、持ち主にさえ露骨な態度に出られると、それがずいぶん切迫したもののような気がするのだ。霊験屋が動かねば解決できない類の、余程の危難。そうだとすると、見逃すのは良心に反する気がした。
不意に英七郎が顔を上げて、室内を見回した。何かを探すように視線が行き来してから、ようやく一点で止まった。窓辺だ。硝子の花瓶に花が生けてある。可愛らしい一輪差しに、君影草が一本。

「あの花は?」

それまでは屋敷の主に知らん顔をしていた英七郎が、自ら進んで口を聞いたことで薊は焦った。東京にいる時は鈍っていると自己主張しているが、英七郎の感覚は薊よりも遥かに敏感だ。まだ、はっきりとここに立ち現れていない櫛の問題を彼がすでに読み取っていることは間違いなく、関心を示すものには何か意味があるはずなのだ。
徳田は突然の質問に面食らったらしいが、話題が櫛から外れたことで気安くなったようで、小さくうなずいて答えた。

「ああ、あれか」
「可愛らしい一輪差しです」
「そうだ。以前妻のために購入したのだが、妻が死んでからは手伝いの娘がああして花を生けてくれているのだ」

薊の目には、英七郎がわずかに笑ったように見えた。

「先刻ここに茶を持ってきてくださったお嬢さん?」

その言い方が露骨だったので、徳田がむっとしたように英七郎を見た。青年は相変わらず櫛をもてあそびながら、君影草の方をじっくり見ている。薊は徳田の意識を逸らせるために、話をまとめにかかった。

「では、このままお預かりしてもよろしいんですね」
「ん?…ああ、そうだ。持って帰ってくれ」
「では、そのように」

薊が答えたところで、英七郎が先に椅子から立ち上がった。懐に櫛を放り込むと、一言も断らずに部屋をふらりと出る。驚いたのは薊とて同じだ。徳田のまなじりが釣り上った。

「申し訳ございません、徳田様」
「いったい何だね彼は!無礼な!」

徳田の肩が怒りに震えている。彼は英七郎が敬意を払わなかったことに苛立っているのだ。薊は弁解も程々に、早々と退散することに決めた。どちらにせよ、彼らの今日の仕事は平凡な骨董屋のふりをして、櫛を一つ受け取るだけだったのだ。長居は無用だった。

「二度と君たちなぞ呼ぶ気はないからな!」

徳田の罵声を聞きながら、薊は屋敷を後にした。





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