その店に足を踏み入れたのは偶然だったはずだ。少なくとも、谷崎は目的地があってその界隈を歩いていたわけではなかった。何となく気の赴くまま、足の向くままに歩いていると、妙に惹かれる店に出くわした。ただ、それだけのはずだった。

「いらっしゃいませ」

店の中には青年が一人いた。黒い髪を短く切って、洋装をしている。まるで帝国大学の学生のようだ。帳場の後ろには奥に続くらしい廊下が伸びているが、暖簾がかかっていて様子を窺うことはできなかった。
黄昏時である。ぼんやりと灯りが入った店内は、どことなく異界へと続く間口にも思えて、谷崎は小さく身震いした。古ぼけた品々が並ぶ骨董屋は、どことなく外と違う香りがするように思えた。

「何か、お探しのものが?」

青年は静かに本のようなものを閉じて、帳場から出てきた。思ったよりは上背のあった彼は、人懐こい笑みを浮かべて、谷崎の傍らへと歩み寄ってきた。慌てたのは谷崎の方である。手持ちの金は少ない。

「いや、これと言って特には……」
「そうですか」
「それに、どれも高価(たか)そうだ」
「そうですか?」

青年は谷崎の横に並んで、一本の簪を取り上げた。

「別にそれ程の値でもありませんよ」

告げられた値は、確かに高価ではなかったが、安価でもなかった。多少無理をすれば庶民にも手が出せるが、何の理由も強い執着もなく買うには躊躇を生む、そんな値段だ。

「如何です?」
「いや、簪を贈る相手がいないよ」

谷崎は首を振った。嘘だったが、青年は納得した様子でうなずくと、簪を元に戻した。谷崎は視線を、彷徨わせた。薄暗くなった店内は、静まり返っている。

「ここの店主が君…のような若者ということはないと思うのだが」
「ええ。店主(おじさん)は別の仕事で出かけてます。俺は代理みたいなもので」

そう言って、ふと笑う。

「万年筆などは、如何ですか。舶来の品が入ったばかりで」

谷崎は驚いて青年を見た。

「ここは、舶来品も扱うのか」
「古いものでしたら、どんなものでも扱います。おかげで場違いなものが紛れ込むことも、しばしば」

青年は軽く笑ってから、暖簾をくぐって奥に入っていく。誰もいないらしく、暗く沈んでいる廊下が暖簾の隙間から覗く。谷崎は身震いして視線を逸らしたが、青年は何食わぬ顔ですぐに戻ってきた。

「これなど、如何でしょう」

美しい光沢の万年筆を示されて、谷崎は興味を引かれて帳場に歩み寄った。天鵞絨(ビロード)のクッションの上に陳列された万年筆は四本。それぞれに、凝った衣装が施されている。一本を手にとって、谷崎はしげしげと眺める。

「これは、そんなに古いものなのかい?」
「ああ、いえ」

青年は困ったように笑った。

「古いというのは、年月を経たという意味ではありません。誰かの手を経たものということです。誰かの手を経て、この店に流れてきたものを、俺たちは古いものというんですよ。もっとも、他の骨董屋はどうか知りませんけれど」
「へぇ。そうなのか」

谷崎は穏やかな表情の青年を見て、手にした万年筆を元の位置に置いた。いずれも欧米列強でそれなりに身分のあった人間の手を経てきたものなのだろう。美しいが、谷崎には気後れを感じさせる。惹かれるものはあるのだが、おさまりが悪い。

「ううん。いい品物だけど、俺には向いてないようだ」
「そうでございますか」

残念そうでもなく言った青年に申し訳なくなって、谷崎は他に何かないかと視線を走らせて、陳列棚の上に奇妙なものを見つけた。

「おや、あれは?」
「……ああ」

不意に、青年が深い溜息のような呟きを漏らしたので、谷崎はぎょっとした。買いもせずにあれこれと見るばかりで機嫌を損ねたかと思ったのだが、そうではなかった。青年は柔らかい微笑を浮かべて、それを手に取った。

「これでございますか」
「そう。その……十字架」

青年の手から、谷崎の手に渡ったもの。それは大振りな十字架だ。周囲に基督教徒のいない谷崎だが、それを見たことくらいはあった。ただし、形が奇妙に違う。谷崎の見た十字架というものは縦長で、二本の棒が文字通り十字に交わっている。しかし、目の前にある銀の十字架は縦長なのは同じだが、その中心に銀の薔薇の蕾が添えられている。

「薔薇十字ですよ。ご存じない?」
「うん、初めて、見る」
「おやおや」

青年がひんやりと笑った。

「それは、おかしいですね」

え、と谷崎が顔を上げた時、蕾が見る間にほころんで、大輪の花を咲かせた。たったの一輪、それも銀の十字架にくっついた銀の薔薇が。あまりの異様な光景に咄嗟に言葉が出ずに立ち尽くす。その前で、青年は悪魔的な微笑を浮かべて、芳しい香りさえしそうな美しい銀の薔薇の花弁を指で撫でた。

「こういうの、お嫌いじゃないでしょう?」

谷崎は血の気が引くのを感じながら、それでも動けずにいた。その前で怪異はさらに続いた。

「う、うわっ」

薔薇の中心から、細長い黒いものが伸びてくる。それらは、節の辺りで折れ曲がった。最初は二本。薔薇の花弁に先端を引っかけて、ゆっくりと外に向かって這い出てくる。脛の部分に黄輪のある黒い足に続いて、現れたのは黄の地に青い横帯が三本入った丸い胴体だ。それが全身を露わにすると、薔薇から十字へ、そして、青年の手の上へと居場所を移した。

「女郎蜘蛛ですよ」

言った瞬間に青年が軽く蜘蛛を放った。谷崎の肩にそれがへばり付く。側面には、禍々しい紅の斑点があった。

「わあっ!わ、わっ…」

慌てたように谷崎が蜘蛛を払おうとした、その手を青年が掴んだ。だが、惑乱した彼は喚き散らし、青年の手を振り払おうと暴れた。それでも青年は話さず、静かに呼びかけた。

「お心を確かに、お客様」

はっきりとして声でそう言った青年の顔には、先程の悪魔のような微笑はない。店に入った時と同じ、穏やかな表情だ。谷崎は、やや呆然と青年を見た。肩にくっついたと思った蜘蛛も、いない。

「大丈夫ですか、お客様」
「あ、あれ」
「何か、ご覧になったのですね?」

首を傾げて見せる青年の手の中には、十字架もない。谷崎は大きく喘いで、腰が砕けたようにその場に座り込んでしまう。青年が片膝をついて、顔を覗き込んできた。

「十字架……薔薇十字」
「残念ですが、当店にはただいま十字架はございませんが」
「そんな莫迦な!」

叫んで陳列棚を見るが、確かにどこにも十字架はない。谷崎は全身が総毛立つのを感じて、歯の根が噛み合わないほどの震えに襲われた。あれは何だったのだと考えてみても、わからない。十字架はない。薔薇は咲いていない。蜘蛛もいない。

「確かに十字架の薔薇が、蜘蛛が」
「……ああ」

谷崎の囁きに、得心がいったらしい。青年は困ったように微笑んで、彼の肩を支えて立ち上がらせると、帳場の中の椅子を持ち出してきて座らせた。

「お客様がご覧になったのは、幻影でございましょう」
「幻影」
「古いもの、この場合は文字通り年月を経たものですが、彼らの記憶は混沌としているのですよ。あまりにも長く生き過ぎてしまうと、彼ら自身にもどうしようもない混乱が生じて、狂った記憶が漏れ出してしまうのです。それは人間でも同じでしてね」

青年は語りながら、谷崎の手の中にあったものを取り上げた。握り締めていた、万年筆。青年が店の奥から持ってきた四本の中で、もっとも地味で静かなものだ。

「あなたが見たのは、これの持ち主の記憶の混沌でしょう。万年筆そのものはまだ新しいものですから」
「そんな」
「そういうことも、多いのですよ。骨董屋は特にね。古い古い想いばかりが立ち込めていくせいで」

青年はにっこり笑ってから、万年筆を元に戻して、帳場の奥へと持っていった。暗い、廊下の向こうにその背中が消えると、谷崎は冷たいものが背筋を這い上がるのを感じて立ち上がった。いつの間にか、店の中にも夜の闇が侵入し始めていた。

「そろそろ、お帰りになった方がよろしいですよ」

青年が手ぶらで戻ってきて、告げた。

逢魔が時(たそがれ)は終わりました。夜は夜で奇妙なものもありましょうが、帝都ではそれも少しずつ減ってきていますから、大丈夫でしょう。堤燈をお貸ししましょうか?」

谷崎は無言で首を横に振って扉に飛びつくと、夜の深い闇の中に飛び出し、後ろも見ずに走り去った。その背に向かって、青年はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。

「そうですか。では、お気をつけて……って、聞いてへんか」

彼は扉を閉めると、鍵をかけた。その足許に帳場から出てきた猫が擦り寄った。尾が二股にわかれたそいつは、一声鳴いた。青年は首をすくめた。

「ああ。退屈な一日やったなぁ。しかも店を閉めようかと思っていた矢先に好奇心旺盛そうな、そのくせ買い物しそうにない客やもん。嫌になってまうわ。ちょっと驚かせて追い払っても、仕方ないやんな?」

ふな、と猫は面倒そうに相槌を打った。猫も空腹なのだ。早く飯にしろとばかりに青年の足に前足をぶつける。

「ああ、ちょっと待ち。すぐに準備したるから。それにしてもホンマに退屈な一日やった。早く葵の奴、帰ってくればええのになぁ」








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