街灯が燈って、闇がヒトのものになったのは、つい最近の話だ。
その日は朝から小糠雨(こぬかあめ)が降り通しでひどく薄暗く、店に客なぞ来ないような一日だった。葵にしてみれば大歓迎である。本業にしろ副業にしろ、彼は勤勉という言葉を持ち合わせていない。日がな一日、(いにしえ)の世界に戯れることこそが、彼にとっては至上命題。客のない一日は、優雅な時間を彼に提供してくれる、はずだった。

「暇なら、ちょいと花菱(はなびし)までお遣いに行っとくれ」

下町育ちの母親の頼みには一人息子と言えども逆らえない。何しろ、十返せば千や万にして押し返してくれる人である。てんで勝負になりはしない。
葵もいい加減そのことは了解していたから、片眉を動かして不満を表明するに留めた。夕飯を抜かれるなど、真っ平御免であった。

「何?」
「この傘、返してきて欲しいんだよ」

母親が手にしているのは、紅い傘だ。

「…一昨日、花菱の道楽息子が持ってきたものじゃない、それ?」

葵の家は古道具を中心に古いものを扱う店だ。名を風虎堂という。骨董屋といえば聞こえはいいが、古いもの専門の何でも屋と言われても反論できないところがある。何しろ、店構えは一言で表すと胡散臭(うさんくさ)い。自宅でなければ、葵だって絶対に足を踏み入れようとは思わないだろう。だが、それでも案外に繁盛している。裏家業のせいでもあるが、表家業だってそんなに悪くはない。古いものをあれこれ買い取ってもらえる、と言うのは、客の方からでも嬉しいものらしい。もちろん、時には断る品もあるのだが。
花菱と言う料理屋も常連である。と言っても、こちらは売るより買う方が多い。骨董が趣味の花菱の主人は、葵の父の目利きを信じて店先にある古伊万里や織部を買いあさっていく。傍で見ていると馬鹿馬鹿しくなる程で、葵は本物の山にひとつだけ贋物を混ぜてやろうかと思うことも、しばしばある。気付けるものなら気付いてみろ、ろくに品物も見てないくせに、と言うやつだ。
花菱の主人も含め、どんなふざけた客相手でも、葵の父、(くら)は嫌な顔一つしない。それが商売と言うものだ、と説かれては反論のしようもないが、葵としては、やはり理解していない、もののわかっていない客と言うのは、見ていて苛々するのだ。

「花菱ねぇ…」

相手は常連客だけあって、顔見知りといえば顔見知りである。遣いに行って見付かりでもしたら、何と応対したものか。己が客商売に向いてないことは、葵にも存分に自覚がある。

「常連さんが一人減っても知らないよ」
「そんなことになったら、納戸整理の刑だよ。ほら、さっさと行っとくれ」

遠回しの言い方も正面から粉砕され、立ち上がって葵は渋々傘を手に取る。
納戸整理は高村家の仕事の中でも、特に悲惨な仕事であった。納戸は六畳。その中は、圧倒されるくらい大量の古道具に埋め尽くしている。片や二束三文の襤褸蚊帳(ぼろかや)が床に落ち、片や高価すぎて売り物にならない高級茶碗が箱書き共々丁重に仕舞い込まれている。
しかも、あれこれと出る。
整理するとなったら、一日どころか一週間でも終わるまい。以前、大掃除にかこつけて、幼馴染の英七郎や許嫁の月子と一緒に放り込まれたが、一生終わらないかも知れないと顔を見合わせた。それだけ壮絶な有り様なのである。

「…行ってきます」

心なしか、己でも表情が硬いのがわかる。不本意だった。折角の雨の一日なのに。
息子の心を読んだ訳でもあるまいが、葵が紺の傘と紅の傘を持って玄関から出ようとしたところで、母親が思い出したように付け加えた。

「帰ってきたら店仕舞いにするよ。そうしたら、好きなだけ『伊勢物語』でも『源氏物語』でも読んで良いからさ」

残念ながら、葵が読んでいたのは『方丈記』であったのだが。彼はひとつ溜息をついてから、行ってきますと、玄関を後にした。








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