山彦(やまびこ)かと最初は思った。時折ヒトの前に姿を現し、声を(とどろ)かせては楽しむ彼らかと。何しろ、山の中はアチラとコチラの境界線だ。
ところが耳を澄ましてみれば、それは山彦の声ではなかった。彼らの声といえば、基本的には笑い声、次いで多いのが怒声、無意味な絶叫。ところが今、届いてくるのは山彦とは似ても似つかない随分と高尚な趣味の、可憐な歌声だった。
嶋英七郎(しまえいしちろう)は知らず作業の手を止めて人影を探して視線を彷徨(さまよ)わせた。歌っている内容はさっぱり理解不可能だが、どうやら日本語ではないらしい。伊太利亜(いたりあ)語か仏蘭西(ふらんす)語か。芸術とは無縁の無骨者で、素養もないから曲名を言い当てる術もないが、その歌声がとても素晴らしいものだと言うことははっきりと感じられた。どのような分野でも、一流であればこそ、無知蒙昧(むちもうまい)な者にもきちんと素晴らしさを理解させられる、と言ったのは相棒だったと思う。彼もおおむね同感だ。素人に評価されないのは、所詮一流ではない、ということなのだろう。
歌声は斜面の上の方から聞こえてきていた。少し考える。仕事中の身である。とは言え、もう撤収するだけなのだが。依頼人の屋敷で相棒も待っているだろうか。待っているに決まっている。その不機嫌そうな顔が想像できて、英七郎は小さく苦笑した。
同時に、好奇心には勝てない自分の姿も思い浮かんだ。

「すまんが、遅ぉなる言うて、伝えて来てんか?」

足許で不審そうに顔をしかめていた愛猫に頼むと、ふしゅっと鼻で笑われた。あまり快くは引き受けてもらえなかったらしいが、それでも山の(ふもと)へ向かって跳躍していく。可愛らしい尻尾を見送ってから、彼は斜面を登り始めた。
歌声は、まだ途切れない。時に強く、時にか細く。高く低く。なかなかの声量の持ち主と思われる。

(どんな()なんやろ)

…そこまで考えて、英七郎は我に返る。可憐な声だからと言って、娘とは限らない。もしかしたら中年女性かもしれないのだ。

「ま、ええかぁ」

無粋者でさえ理解できる素晴らしさを持つ声の主だ。拝顔ついでに一声掛けてみるのも悪くない。澄んだ歌声の持ち主が、まさか山姥(やまんば)と言うこともないだろうと考える。
斜面を登り切ったところに、山小屋がひとつぽつんと立っていた。もっとも、それを山小屋と言って良いのなら、だが。普通の木造平屋の一戸建て並の大きさである。野中の一軒家ならぬ、山間の一軒家。かなり古そうな代物ではあるが、広さだけなら人が住むには充分だろう。
慌てて手持ちの地図で確認する。この山は依頼人の持ち物だから、家があるならあると、一言あるだろうに、そんな話は英七郎も聞いてない。地図にも、それらしいものは書かれていない。

胡乱(うろん)やなぁ」

セイレィンかロォレライか。そんな類かも知れないと思うと、かすかな落胆を感じる。そういうモノは間に合っているのだが。
歌声はまだ続いている。そろそろ最後に差し掛かりつつあるのか、同じ様な響きを繰り返している。
繰り返し、繰り返し。
しかし、その声を聞いている内に我を忘れてしまうこともないところは、その手のモノではないのかもしれない。英七郎は足音を殺して、慎重に屋敷の側面に回り込んだ。歌声が大きくなる。

「…おー…」

咄嗟(とっさ)に呟いてしまう。
驚く程可憐な少女、というとありがちな表現だが、残念ながら英七郎は文筆家ではないので、それ以上の形容もできない。彼は少女の顔を見つめた。可憐。清純。そんな単語が脳裏をよぎる。背景の襤褸(ぼろ)家屋と激しく不似合いな美少女は、着物の袖を風に吹かせながら歌っている。明らかにそこだけ色彩が違っていた。
しばらくすると、少女は聴衆の存在に気付いたらしく、歌を途切れさせないままに振り返った。少し吊り上がった瞳が、妙に可愛く印象的だ。血色の良い唇からは耳に心地いい旋律だけが流れ出す。驚いた様子ではあるが、まったく臆する様子もなく、最後の音まで歌い切った。
つい、拍手が出た。

其方(そなた)、何者じゃ?」

一息ついて、彼女が問うてくる。ぼけっと突っ立ったまま、英七郎は素直に応えた。隠す理由がなかった。

嶋英七郎(しまえいしちろう)。花岡はんの依頼で、この山に仕事に来てたのや」
「ふむ。そう言えばそんなものが来ると、父上が言われておったの」

そんなもの、とは言ってくれる。彼は心の中でだけ苦笑した。

「自分、もしかして花岡弓彦(はなおかゆみひこ)の娘かいな」
「もしかせずとも、そうじゃ。花岡家のお茶目で可憐で音楽の才能豊かな末娘の七緒(ななお)じゃ」
「…己で言うか」
「ほぉ。英七郎とやら、其方にはわらわの歌が下手に聞こえたかえ?」

あっけらかんと言い放たれては、反論も難しい。英七郎は呆れた顔で溜め息をついて、黒髪を掻き上げた。
依頼人花岡弓彦の家族構成は頭に入っている。妻の清子に長男の武彦(たけひこ)、長女祐子(ゆうこ)、次女初子(はつこ)、次男敦彦(あつひこ)。それから末娘に十四才の七緒。長女と次女はすでに嫁に行っており、次男は帝大に進学中。長男は嫁を貰って父親の家業を手伝っている。そして、末娘は奥座敷で花嫁修業中、と聞いていたのだが。
その点を突っ込んでみると、少女は呵々(かか)と笑った。なかなか爽快な笑い方をするお嬢さんだと、これまた妙な感心をしてしまう英七郎だ。

「わらわは嫁に行くのが嫌で、ここで勝手気侭(かってきまま)に暮らしておるのじゃが、父上はそれが非常に不満の様での。体面が悪いと思っておられるらしい。其方に嘘をついたのも、妙な噂が近隣で立つのを嫌ってじゃろうのぉ」
「へぇ。独り暮らしなんか?」
(いな)。ばあやが、どうしてもついて来ると言うので、二人暮しじゃ」

詳しい事はわからないが、どうやら、部外者には窺い知れない家庭内の事情があるらしい。
それにしても、と彼は思う。姉以外にも、これほど自己主張の強い女性が、この時代にいるとは。それは、いっそ清々しい驚きであった。彼は少女との会話に楽しみを感じ始めていた。

「それやったら、こんな山奥に隠居せんと都会にでも行ってみたらどや?」
「都会に行っても、することなぞないであろう。ここなら歌い放題、ピアノ弾き放題じゃ」
「そんなことないやろ。都会には音楽学校、あるで」
「教師に習うことなど、何がある?音色は感じてこそ、意味があるのじゃ」

可愛らしく、小首を傾げて笑う。その仕草は年齢通りの少女の顔だ。歌声には大人顔負けの天賦(てんぷ)の才があるのだろうが、表情にはまだまだ幼さが残る。

「しかしなぁ。こないに何もない山奥やったら、聞いてるのは熊か猪くらいのもんやろ。勿体ないんちゃうか」
「熊の方が人間よりも聞く耳を持っておるぞ。わらわの前で大人しく聞いておった」
「そりゃ、また何とも…」

さすがの英七郎も、これには絶句する。すると、今度は少女の方が彼に興味を持ったらしい。

「それで、其方はここに何しに来たのじゃ?わらわに用はない筈であろう」

いまさらながら、心底不思議そうに少女が訊ねてくる。これにも隠しだてする理由はない。彼女のあっさりした物言いのおかげで、英七郎はかえって照れくささを感じずに済んだ。

「近くで仕事しててん。綺麗な歌声が聞こえてきたから、気になったんや」
「ほ。それはまた、邪魔をしたか?」
「いんやー。仕事片付いたとこやったし。ええもん聞かせてもろたわ。あんまり詳しゅうないねんけど、日本の歌、ちゃうやろ?」
「うむ。独逸(どいつ)の歌じゃ」

重々しく頷き、次いで苦笑した。それは、今度は十四歳と言う年齢にそぐわない、大人びた苦笑いだった。

「其方、良い耳をしておるの。わらわの家族は、皆、耳はあれども聴くことはできぬ者ばかりじゃ。ばあやはわかってくれるのじゃがのぉ」
「聞いてもらえへんのか?」
「…歌より針、声より顔、と皆言うのじゃ。婚約者にあてがわれそうになったのも、音楽のおの字も理解できぬ資本家の息子での。腹が立ったので、肥溜(こえだめ)に落としてきてやった」

なかなか過激なお嬢さんであるらしいと、ようやく彼も理解した。だが、不思議と不快感はない。
冷静に考えれば彼の姉も似たようなもの、あるいは、姉の過激さの方が数段上だろう。気に喰わない許婚を危うく箪笥(たんす)の下敷きにするところだったのだから。だから、英七郎はちっとも驚かなかった。

「まあ、ええんちゃうかー。気に入らん家に嫁いでも、苦労するやろ」
「苦労するのは、いつも女じゃしな」

実感の籠もった言葉に、つい口を噤む。少女は首を振った。

「わらわの名を付けて下さったお祖母様(ばあさま)は、それはそれは苦労されたらしい」
「そうなんか」
「だから、わらわの隠居生活を許すよう、父上を説得してくださったのじゃ。もっとも、そのお祖母様も半年程前に亡くなられてしもうたが…」

うつむく横顔に、花岡弓彦の顔を思い出す。あまり親しくなりたい種類の男ではない。家父長制(かふちょうせい)の生きた弊害(へいがい)と言っても過言ではないだろう。青踏派(せいとうは)の天敵みたいな男だ。同性の英七郎から見ても不愉快な男だ、母親の説得とは言え少女の隠居暮らしを容認するような男とは、とても思えなかった。それこそ、娘は父親の道具、女は男の道具、と言ったの認識しか持っていないだろう。依頼をしてきた言葉の端々にそういうものを感じていたからこそ、連れを姉ではなく相棒にしたのだ。

「それやったら、危ないんちゃうか?」
「何がじゃ?」

きょとん、と見返してくる。こういうところは、やはり年相応だ。その愛らしい表情に何となく心が浮き立つのを感じながら、英七郎は思いついたことをそのまま口にした。

「味方やった祖母さんが亡くなってしもたのをええことに、花岡はん、約束を反故(ほご)にするかもしれへんで。自分がここで暮らすん認めたんも、もしかしたら、実家で何やら画策するのを勘付かれんようにするためやったんかも」








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