誰がこまどりの死を見たの?
あたしだよ、と蝿が言った。








「ちょっとアリス、寝惚けないでよ!」

 ドン、と肩を押されて彼女は我に返った。一瞬にして、周囲の喧騒が耳に飛び込んでくる。がやがや、がやがや。それは意味をなさない音の集合としてアリスの意識を鈍く殴打した。変ね。そんなに大勢の人がいたかしら。

「あ、……ごめん、ルーシー。ぼうっとしてたみたい」
「しっかりしてよねぇ」

 振り返ると幼馴染みが口許に薄笑いを浮かべて立っていた。上等な布をふんだんに使った赤のドレス。緩やかなカーブを描く金髪を結っているのは薔薇色のリボンだ。おや、と思ってアリスはまばたきをした。このドレス、このリボンとの組み合わせ、見覚えがあるわ。アリスは小首を傾げた。あの日も身に付けていたような気がするけど、いつだったかしら。あの、真っ赤な夕暮れの日。

「ねえ、あんた本当に大丈夫?」

 ぼんやりしていたら、ルーシーが顔をしかめた。その口調に剣呑なものが混じる。

「まさか具合悪いの?」
「ううん、大丈夫。何でもないの、ちょっとだけ」

 ちょっとだけ、何だろう。自分の言葉に首を傾げながら周囲を見回す。同じクラスの生徒3人がかしましくお喋りしている。ポリー、エルシー、ジェニー。当り前だ、ルーシー・グランディの主催するお茶会だもの、彼女たちが集まるのは不自然なことじゃない。アリスは軽く笑って、高慢な幼馴染みを安心させようとした。
 それにしても、ものすごい甘い香りがする。そんなにお菓子があったかしら。アリスはテーブル上に視線を送る。レモンパイ、ハート型のクッキーにヒト型のジンジャークッキー、クリームブリュレ、バニラビーンズを入れたタフィー、全粒粉のスコーンとブルーベリージャム、ブランデーに漬け込んだパウンドケーキ。それとオレンジマーマレード。全部、アリスが用意したものだ。だけど、すべてをセッティングした時にはこんなにも甘ったるい匂いはしなかったはず。何だか気持悪くなってくる。

「アリス、アリスったら!」
「え……ああ」
「もう、いい加減にしてよ」

 不機嫌そうな顔のルーシーに腕をつねられて、はっとする。またぼんやりしていたようだ。

「サイモンが来ちゃうじゃない、打ち合わせ通りにしてよ!」
「ご、ごめんっ」

 つねられた部分がずきずきと痛む。顔を上げると、ちょうどドアのところに制服姿のサイモン・パイパーが現れたところだった。相変わらず涼しげな目許。心をざわつかせる情熱的な赤毛。襟元はかっちりと、ネクタイは真っ直ぐに。知性と品格ある佇まい。黙って立っているだけで、誰からも愛される資格を持つ、アリスの愛しい従兄殿。彼はご指定通りにやってきたのだ。
 ルーシーの瞳から苛立ちが消えて、恋する女の子の表情が取って代わる。機嫌がいい時のルーシーは、本当に可憐に見える。だけど、それは表向き。本当はいじわるで、自分勝手で、驕慢な女王様だ。だけど、アリス以外は誰も知らない。みんな知らない。そう、ルーシー・グランディはほっそりとした、輝く瞳の、可愛らしいだけの女の子、そんな風に思っているはず。サイモンだって。そんな醒めた気持ちを隠すため、アリスは親戚らしい親しみを込めてルーシーの背後からサイモンに笑いかけた。美しくて狡賢い女王様に仕える、人畜無害な引き立て役。

「サイモン、いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ」
「ご招待いただいて、どうも」

 彼の目は、けれども油断ない。

「女の子ばかりみたいだけど、いいのかな?」
「ええ、もちろんよ。本当はね、他の男の子も呼んだのだけど、みんな来てくれないみたい」

 嘘ばっかり、とアリスは心の奥で嘆息した。他の男の子なんて、最初から呼ばなかったくせに。便利な小間使いと取り巻き連中、それから王子様しか舞踏会に呼ばなかったじゃない、なんて嘘つき。美しいのは月曜日の子供だとマザー・グースは言ったから、きっとルーシーは月曜日の子供じゃないわ。頬を紅潮させながらサイモンを案内する幼馴染みの後ろ姿に、アリスは恨みがましい視線を送った。ああ、女王様があの日みたいに酷い目に遭えばいいのに。

「……ス、アリス!」
「え」
「ねえ、ちょっとそのチョコレートケーキ、頂戴ってば!」

 我に返ると、なぜか右手にティーポットがあった。いつの間にか自分の席についている。向かいに緑のドレスを着たジェニー、右手に黄色のドレスのポリー、その向かいが白色のドレスに身を包んだエルシー。青のアリスが末席だ。上座には真っ赤な女王ルーシーと赤毛の王子サイモンが、まるで婚礼の席上のように並んで座っていた。

「やぁだ、アリス、どうしたの?」

 猫をかぶったルーシーの声。くすくす笑うエルシー。ジェニーは声を立てずに、にやにやしている。

「ごめん、何だか甘い匂いに中てられちゃったみたい」
「バルコニーで外の空気でも吸ってくる?」
「ううん、大丈夫よ。大丈夫」

 自分に言い聞かせてからティーポットを下ろし、ケーキナイフを手に取った。チョコレートケーキを上手い具合に8等分して、その一切れを差し出された皿に載せる。それは確かにアリスが作ったものだ。けれども、ここではルーシーの手柄になる。可愛らしい女の子の、白くて細い指が生み出した、サイモンのための甘いお菓子と偽られる。アリスは表情を殺すためにティーカップを持ち上げた。豊かな香りと、ほのかな苦み。お菓子が甘いからと選んだ紅茶だけは、彼女に優しい。
 サイモンが容赦なくチョコレートケーキにフォークを突き立て、切り出した欠片を口に入れる。ふっくらとしたスポンジ状の生地はアリスの自信作だ。だけど、あたしチョコレートケーキなんて作ったかしら。ルーシーが嫌がったから、レモンパイにしたはずだけど。

「これ、美味いね」
「お口に合ってよかった!」

 見つめ合う赤の女王と赤毛の王子。アリスの胸がぎゅっと苦しくなる。チョコレートケーキのことは記憶違いかもしれない。今までにもルーシーに命令されてあれこれ作ったから、頭の中が混乱しているのかもしれない。そう、あの紅蓮の夕暮れの日だって。あたしは命じられるままチョコレートケーキを作ったっけ。
 ジェニーはスコーンにブルーベリージャムを塗りたくって齧りついている。ポリーがタフィーを皿に山と取り分けている。エルシーはパウンドケーキの外側だけをこれ見よがしに剥いで残している。誰もクリームブリュレには手をつけない。アリスはクッキーをつまみ上げた。一口、齧る。ジンジャーが舌を蹴飛ばした。

「アリスとは親戚だって聞いたけど。幼い頃から親しかったの?」
「父方の家系図を辿れば従妹になるのかな、一応の行き来はあったよ」

 ルーシーの熱っぽい瞳がサイモンただ一人に注がれている。沸々と煮えたぎるような不快感。それでも、黙っているしかない。

「ちょっと、アリス」

 テーブルの下でそっと袖を引かれる。ポリーが下世話な好奇心剥き出しの目でアリスを見ていた。

「むっつりしてないで、紅茶注いでよ」
「……」
「それから、マーマレード取ってよ。あら、何その可愛げのない目付き。サイモンの従妹だなんて、何かの間違いなんじゃないの」

 ひそひそ声でぶつけられる嫌がらせにも、アリスは極力表情を消して対処した。怒ったり、傷ついたりしたら彼女たちを喜ばせるだけなのは、すでに経験済みだ。大切なのは沈黙、服従、無反応。それらを徹底していれば、彼女たちはすぐに退屈して新しい遊びに夢中になるのだ。だから、今だけ歯を食い縛って我慢すればいい。慣れた手付きで紅茶を注いでやり、壺ごとマーマレードを渡し、ついでにスコーンを載せた皿をポリーに押しやる。案の定ポリーはすぐにお菓子に夢中になった。
 アリスはしばらく紅茶で自分を誤魔化していたが、ついに我慢できなくなった。表面がこんがり焼けたクリームブリュレ。大きめのスプーンで表面を叩くと、キャラメルが爽快な音を立てて割れた。4枚の皿を並べて、それぞれにたっぷりと盛る。滑らかな断面。卵の色が鮮やかだ。見た目は上出来。きっといつもだったら味だって悪くない。でも、今日のこのクリームブリュレは最低最悪の味だろう。アリスは小さなスプーンを各皿に添えた。

「サイモン、あなた、そんな難しいことばかり考えてるの?」
「ふふ、そうでもないよ。女の子だって、嫌いじゃないから」
「あらあら。そんなこと言って、女子供なんてつまらないと思ってなぁい?」
「嫌だなぁ、そんな酷い人間じゃないつもりなんだけど」

 黙って4人に配る。ジェニー、エルシー、ポリー、そしてルーシー。サイモンにだけは出さない。彼はクリームブリュレが好きではない。4人はさっそくスプーンを手にした。アリスは自分の席に戻る。今日のブリュレには滑らかな触感と控えめの甘さの奥に、若干の苦みがあるはずだ。だけど、彼女たちはきっと気付くまい。表面のキャラメルが焦げすぎたのだと思うに違いない。そして。

「……ぐっ!」
「ああ……っ」

 ジェニーが最初に叫んだ。次にエルシーが顔を歪める。ポリーは反応が鈍く、ルーシーはもっと鈍かった。自分に何が起きているのか、まったくわかっていない顔で床に引っくり返った。それなのに、災難を逃れたサイモンだけは不思議な感情をたたえた瞳でアリスを見ている。驚愕でも、恐怖でもない。むしろ、そっちを選んだのかい、どうしてそれを選んだのかな、とでも問いたげな視線だった。でも、それってあんまりじゃないかしら。そう腹を立てながら、アリスは自分が縛り首になる様子を思い描いていた。
そして、サイモンの背後、窓の外に真っ赤な夕陽を見い出した。        




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