表戸を閉めてからマノアはカウンターに腰を下ろした。テーブルには最後の客が食い散らかしていった料理の残骸や葡萄酒の匂いがまだ残っている。あまり上品とは言えない客たちの後始末は嬉しい作業ではなかったが、そもそもこんな小さな店に来る客層に上品さなど期待しても仕方がない。しばし虚脱したように座り込んだまま、彼女は天井を眺めていた。
 今日も平穏無事に終わった。それはありがたいはずなのに、マノアは一抹の寂しさを覚える。いつの間にか単調な鋳型にはまってしまった毎日に、あたしの人生はこのまま過ぎていってしまうのかと、時折そんなことを考えては愕然とすることが近頃は多くなった。
 このまま最後まで? 何ひとつ大きな幸福も歓喜もない、ありふれた人生のまま?
 マノアはわずかにうなだれ、両手で顔を覆った。誰もいない店で、束の間、憂鬱に囚われる。
 だから、やや低くて耳に心地よい声がした時は息が詰まるほど驚いた。
「今宵はもう終わりか」
 いつの間にか戸口に一番近い席に男が座っていた。肩越しにマノアを振り返ったその男はなめし革の外套を身にまとい、フードを目深にかぶっていかにも訳ありげな様子である。ほっそりした白い顎は常連たちのような労働者のそれとも思えず、薄いくちびるから覗いた白い歯にはヤニの色も見えない。
「今宵はもう終いかと聞いている」
「……いいえ」
 マノアは戸惑いながら立ち上がった。表戸を閉めたはずなのに、この男はどこから入り込んだのだろう。だが、とにかく客がいるなら働かねばならぬ。疑問を抱きながらもすぐに厨房に入ったのは、長年の習慣であっただろうか。
「ご注文は?」
「温い葡萄酒と、何か酒肴が欲しい」
 まだ火を落としていなかったことが幸いして、すぐに準備に取りかかることができた。小鍋に葡萄酒と香辛料数種類を入れて沸騰させないよう気をつけながら、じっくりと温めていく。その横で青菜と小海老を炒めて塩を振りかけ、魚醤をほんのわずかに垂らした。プンと独特の匂いが立ち込める。マノアの店の人気料理だ。
 炒め物が出来あがると、今度は豚肉の煮込みを火にかける。ちょうど一皿分だけ残っていたので明日の朝にでも食べてしまおうかと思っていたが、この際だから男に出してやることにした。そうして煮込みが温まった頃には、異国情緒漂う香辛料の複雑で魅惑的な香りが葡萄酒にしっかりと移っていた。
「これで足りるかしら」
「充分だ」
 目の前に並べられた料理にうなずいてから、男はおもむろに右手で豚肉を一切れつまんだ。その姿にマノアは反射的に訊ねる。
「あんた、この国の出身じゃないでしょう」
「いや、そんなことはない」
 男は面倒くさそうにそれだけ答えた。


 カウンターに腰を下ろしたマノアは、客を怒らせない程度にこっそりとその服装を観察し始めた。どこから見ても同国人と思われるのに、熱々の炒め物も煮込みも平然と手掴みする姿は奇異だった。かれこれ百年以上昔から、この国では手掴みでの食事は無作法とされている。労働者でさえ決してしない。だから、どう考えても男はこの国の生まれ育ちと思えない。
 では、なぜ嘘を。マノアは少し不安になって考え込んだ。そう言えば、表戸を閉めたはずの店内になぜこの男は入ることができたのだろう。
「こんな遅くまで仕事か何か?」
「そのようなものだ」
 男は最後の小海老を食べ終わると指に付いた油も綺麗に舐め取り、満足げな吐息をこぼした。葡萄酒の残りを舐める男の後ろ姿が悠然としていればいる程、マノアの不安は少しずつ膨れ上がる。この奇妙な客は何者なのだ。
「美味かった。まともに食ったのは久し振りだ」
「……そう。よかったわ」
 男がのっそりと立ち上がった。その拍子にフードが男の頭部から外れ、鮮血のような真赤な髪が乏しい灯火の下で剥き出しになった。それは息を呑むような美しさで男の青白い顔を縁取る。しかも、細面の男は恐ろしい程に上背があり、マノアはほとんど呆然と見上げるしかできなかった。
「支払いは金貨でできるか」
「……この店がそんな豪勢に見える?」
 男の非常識な問いに、マノアはかすれた声で応じた。金貨など出されても釣り銭の用意ができない。そう告げると男は静かに首を振った。
「それは困る。俺は銅貨の持ち合わせがない」
「こっちも困るわよ、そんなこと言われても」
「では釣り銭は要らぬ」
 平然と男が懐から金貨を取り出した。それを見て震え上がったのはマノアの方である。ほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。
「勘弁してっ」
「何故だ」
「そんな物もらっても困るからよ!」
 こんな田舎町で金貨など使い道がないどころか、庶民が持っていれば役人に怪しまれてしまう。マノアがこの店を売り払い、身を粉にして死ぬまで働いても、金貨一枚さえ贖うことなどできないのだ。盗みの疑いをかけられかねない。
「冗談はやめて。嫌がらせなの?」
「そのようなつもりはない」
「だったら、それ、その金貨、お願いだから持って帰って」
 男はしばらく黙っていたが、マノアの言葉が本音だと感じ取ったらしく渋々ながら金貨を懐に戻した。その異様な姿に、自分が何か得体の知れない客を招き入れてしまったことを、彼女はようやく理解した。
「代金はもういいわ。今度来た時にでも払ってちょうだい。そろそろ店も閉めたいから」
 男は無表情のまま首を振った。
「ならぬ」
「気にしなくていいよ、ツケなんて珍しくもない」
「葡萄酒と肴の代価を俺は払わねばならぬ。……金貨以外のものならどうだ」
 不意に、男の赤毛が本物の炎のように揺らいだ気がした。まるで飛び交う羽虫を誘惑する篝火のように。マノアはその髪に見惚れながら、どこかでそんな話を聞いたような気がした。人間を惑わす、生き物のようにうごめく赤い髪をした男。
「金貨以外って……」
「もっと儲かるようにまじないをする、というのは? あるいは、もう少しいい場所に店を構えられるようにする、とか?」
 男が一歩踏み出した瞬間、店全体が大きく震えた。
 同時に、マノアは思い出した。幼い頃、祖母から寝物語に聞かされたことがあるお伽話のひとつ。それは日々の暮らしに倦んだ者の前に現れて、望みを叶える代わりに恐ろしく高い対価を払わせる魔人の伝説。人間を狂わせる、赤毛の男の物語。
「まさか」
「どんな望みでも断りはせぬぞ、ん?」
「う、わっ」
 またしても店が揺れた。それもそのはず、男の体は少しずつ大きくなっている。ただの大男だったはずが、巨人と言っても過言ではないくらいになり、その赤毛が天井につかえている。
 その現実を目の当たりにすると、もう駄目だった。全身の震えが止まらない。崩れるように、頭を抱えて床に座り込む。
「望みを言え」
 人間ではありえない男は、その巨体ゆえに店全体を軋ませた。低い声は天から降り注ぐかのように重々しい。
「望みを叶えてやろう。望みは何だ。望みを言え。酒と肴の分だけは叶えてやろう。さあ、遠慮することはない。望みを言え!」
 もう屋根は壊されてしまっただろうか。壁は抜けてしまっただろうか。さぞや、近隣の住人たちは恐怖にさらされているに違いない。うずくまっているマノアにはもう何もわからない。頭上から落ちてくる木片から身を守るので精一杯だ。こんな大きな存在を入れておくには彼女の酒場は余りにも小さいのだ。
 もとよりマノアの店はちっぽけだ。出す酒は酔えるならそれでよしの安物で、美味しく仕上げてある酒肴も安価なものばかり。この小さな酒場にあるものは、汗水垂らして働いた男たちが少ない給金の中からやりくりして、嫁に叱られながらもちょっとだけ楽しんで、その日の憂さを晴らしてからまた明日も頑張ろうと思えるような、ほんのちょっとした喜びのための酒と肴、それだけだ。
 仮にマノアが望みを言ったとして、魔人の求める対価に果たしてそれが見合うだろうか。答えなど考えるまでもない。
(莫迦だったんだ。あたしが莫迦だったんだ!)
 伝承は、魔人が暮らしに飽いた人間の前に現れると語る。平穏な日々に退屈した人間、つまりは死ぬまでここで働き続ける人生を憂鬱に思ったマノア自身が、この赤毛の魔人を呼んだに違いない。だが、伝承は結末も語る。魔人に望みを叶えてもらった者は、望み以外のすべてを失う。昨日と変わらぬ、今日。今日と変わらぬ、明日。平凡だが穏やかな毎日。安寧。そのすべてを。
『毎日、こうして家族で過ごせる幸福を忘れてはいけないよ。それは魔人には生み出すことのできない大切なものだからね。いいかい、マノア、魔人の甘言に騙されちゃ駄目だよ。取るに足らぬ小さな望みのために、もっとも豊かな幸いを捨ててはいけないよ』
 魔人の伝承を語る時、祖母はいつもそう語ったはずだ。魔人の見せる幻想はいずれ悪夢に化けるだろう。それよりも昨日を愛し、今日を愛し、明日を愛するように。小さなことを愛し、ささやかなものを愛し、己を愛してくれるものを愛しなさい。
「……望みなんて、ない。何も、ないよ」
「嘘を言うな、人間、望みを言え。飽き飽きするような毎日から逃れさせてやろうぞ」
 男の声は圧倒的な響きでマノアを打つ。だが声も体も震えながら、それでも彼女は屈しなかった。
「そりゃあ、あたしだって繰り返す毎日にうんざりすることだってある。もっと素晴らしいことが自分に起きたらいいのに、そう考えてしまうことだって。あんたが現れる前も、そんなこと考えてた。だけどねぇ……」
 店の準備に追われ、客の注文に追われ、夜半に疲れて眠る。単調なその生活が虚しくなる夜は、ある。なぜこんな退屈で変化のない、面白味のない生活を続けなければならないのかと思う朝も、ある。
 それでも結局は店を続けてきた。この毎日から逃げ出す道、店を止めて別の生き方をする方法は確かにあったのに、結局はここに踏みとどまっている。それは、たぶんここに小さな幸いがあったから。
 魔人を前にしてすべてを失うかもしれないと感じたその時、心の底から平凡だった昨日が愛しかった。何事もなかった今日が愛しかった。そして、相変わらずであろう明日が愛しいと思えた。
「だけど、あたしが店を止めたら残念に思ってくれる常連客がいるんだよ。マノアの店は酒も料理も安くて美味くて、気分よく飲めるってね。俺がよぼよぼの爺さんになって、棺に入るその日までそのままあってくれよ、って。そう言われると、それで充分かなぁ、と思うんだ。時々は、そりゃあ忘れちゃうこともあるけどね」
 ひとつひとつは取るに足らない、ささいな幸い。けれど、それがマノアの全身を満たしてくれる。平凡でつまらないかもしれないけれど、かけがえのない毎日。退屈で苦しくて、それでも楽しい、二つとない人生。それがここにある。この店に。
 もう魔人への恐怖はなかった。どこまでも凪いだ気持ちのまま、淡々とマノアは告げた。
「あたしは、このままでいいよ。特別なものは何にも要らない。ただ、あんたが美味しかったと言ってくれた、それだけで。もう充分」


 店は静寂に包まれていた。
 床に座り込んだままどれだけ待っても、もう天井の破片は落ちてこないし、怪しい気配もなく、何の音もしない。不思議なことに、壊されたはずの店は天井も壁も変わりなく、今までのことは悪い夢だったとでも言いたげに、すべてが整然と元のままであった。
 マノアのすぐそばにひょろりと縦に細長い男が立っている。フード付きの外套を着た、最後の客だ。表情は見えないが、しゃがみ込む彼女をずいぶんと不審がっているのは間違いない。
(あ、あれ?)
 マノアは慌てて立ち上がったものの、先程までの出来事と現在とをうまく繋ぎ合わせることができずに、やや呆然とした。入り口近くの席には空の食器が残っており、酒と料理を出したことまでは間違いないらしい。だとしたら、あれは夢ではないはずだが、しかし、男の様子に変わったところはない。
「あ、あの?」
「これで足りるか」
 それまで黙っていた男が、ようやく言葉を発した。その大きな手には銅貨が数枚ある。フードを脱いだ顔はやや浅黒く、髪は焦茶色だった。あの魔人の怪しい赤毛とは似ても似つかない。
「え? ……あ、ああ。足りるよ」
「そうか」
 あれは夢だったのだろうか。あの赤毛の魔人は。
 マノアの混乱を知っているのかいないのか、男は特に何を言うでもなくフードをかぶり直し、まだ閉められていなかった表戸を開ける。そうしておいて、彼はゆっくりと振り返った。目許はフードの陰になっているが、口許に浮かんだ微笑は隠されていない。
「……かった」
「え?」
「そなたの料理は、実に美味かった。また来たいものだ」
 男が小さく笑った時、開け放たれた表戸から一陣の強風が舞い込み、マノアを正面から打った。そのあまりの強さに、男を呼びとめることもできず、慌てて顔を逸らす。風はひとしきり店の中で暴れまわると、やって来た時と同様にものすごい勢いで屋外へと飛び出していった。
 後には、男の姿もない。
(だけど、ああ、やっぱり!)
 マノアは男が店を出ていく直前、確かに見たのだ。風を孕んだフードから一瞬だけこぼれた髪を。それは、やはり燃え上がる炎に似た色にきらめいていた、ように思われた。



覆面作家企画5

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