牢獄の暗闇の中に白い顔が二つ。
それがヘレンとステファンだと知っても、彼女は眉ひとつ動かさなかった。幻覚だと知っていたし、何より、墓の中で目覚めて以降、恐れの感情というものが欠落してしまったのだ。怒りや憎悪は感じるのに、恐怖だけは感じない。己の歪さに彼女はいっそ笑い出してしまいたかった。
しかし、そんな気力ももうない。
目を閉じて、生気を失った唇から微かに吐息を零すのが精一杯だった。
すでにどれだけの時間をこの暗闇の中で過ごしたかわからなくなっている。ナイルズといたのが、つい先日のような気もするし、それは夢で、最初からここにいたような気もする。もしかしたら、まだ墓の中に埋葬されているのかとさえ思う時もある。
それでも悲鳴さえ出ない心はどこか壊れているのだろう。
かつてはアン・カーソンであり、一時はヘリーンであった彼女は、もう一度目を開けた。暗闇に浮かび上がる顔。
今度はひとつ。見覚えのある男だった。

「……ああ、あなたなの」

声が擦れた。男はそっと目を細めて、そんな彼女を見下ろした。

「変ね、いつもはヘレンとステファンなのに」
「それは俺が本物だからだろう」

男の言葉に彼女は僅かに目を見張った。そして納得した。
幻覚の二人とは違う質感を伴った、意志の強い表情と、確かに感じる生物の気配がある。どうやら目の前の男は彼女の心が呼び出した夢幻ではないらしい。

「どうしたの?」
「ハンガーストライキ中と聞いて様子を見にきた」

彼女は搾り出す様に笑った。

「別にそんなご大層なものじゃないわ。全てがどうでも良くなった……それだけよ」

果たして、その言い分が正確なのかどうか、彼女にもよくわからない。ただ、牢獄に入った瞬間に、生きていく意味がなくなったのは事実だ。ナイルズもいない。彼女に未来を請う者もいない。そして、己が己を必要としていない。ただ、人殺しの烙印がそこにあるだけだ。
食事をする気力がない訳ではない。空腹も確かに感じている。しかし、意志の力で絶食している訳でもない。スプーンを、フォークを手にした瞬間、身体も心も霧消するのだ。何もない空間に食べ物を放り込む人間はいない。

「せっかくの美貌も見る影がないぞ」
「そうなの?鏡がないからわからないわ」

時折、骨と皮になっていく手を見ることはある。死人の手。容貌の衰えも推し量れようというものだ。しかし彼女の心にはそれも届かない。ただ、暗闇の中で死者の幻影と対峙する時間だけが、彼女の意識を繋ぎ止める。
男はそれを敏感に察したのか、寝台に腰をかけると、すっかり艶を失った彼女の髪を撫でた。

「逮捕された、あの時の威勢が嘘の様だな」
「平穏を打ち砕かれれば、人は誰でも怒るわ。でも、それが偽装された平穏の場合、失ってしまうと、諦めてしまうものよ」
「諦めたのか」
「全てを、ね」

徐々に咽喉が、舌が滑らかさを取り戻す。もう長らく会話などしていなかった。凝り固まっていた何かが少しだけ融解した気がした。

「それで、何の用なの」
「わからない?」
「もう未来は見えないのよ。見えるのはいつもヘレンとステファンばかり」

見えないのか、見ないのか。それも彼女にはわからない。見ようと思えば見えるのかもしれないと思いながら、その意味がなくなってしまった今では不必要な行為に思える。それとも、やはり、もう見えないのか。寝ても覚めても、暗闇の中に浮かび上がる二つの顔だけが彼女の全てだ。
男が深々と嘆息した。

「調べたが、随分正確に予知できたそうじゃないか。もったいない」
「そうかしら」
「俺は予知の力がないからな、多少羨ましく思う」

男はそう言って、小さく笑った。

「この世界には君の様な人間は大勢いる。君一人が特別な訳じゃない」
「……」
「俺の知り合いが君に興味を持ってる。どうだろう、もう少し生きてみる気持ちにならないか?」

彼女はそっと目を閉じる。瞼の裏の二つの顔。生きるとは何だろう。彼女は不思議に思う。

「ねぇ」
「何」
「ひとつ知りたいことがあるの。なぜステファンは私に毒を飲ませたのかしら?」

それは彼女の中に唯一澱んでいた疑問だった。
弟のステファンは多少意志薄弱なところがあり、どうにも他人に押し切られる性格で、ロンドンで偶然目の前に現れた時も明らかにヘレンに引きずり回されている印象だった。彼女は無表情を装いながら、この二人は長く持たないだろうと思っていたことを思い出す。しかし、お人好しであったとしても、他人を害することに有耶無耶に同意するとは思えない。それは気弱の域を越えている。
彼女の疑問を初めから知っていたかの様に、男はやんわりと答えた。

「本当のことはわからない。俺には、死人の声を聞く力はないから。けれど、推測することはできる。それでも?」
「聞かせて」

男はもう一度、彼女の髪を撫でた。

「彼はきっと……それが毒薬だとは思わなかったんだろう。そう、知らなかったのさ」
「……ああ」
「知らないということは恐ろしいことで、だから彼は躊躇することもなく、君に毒を盛ることができた。そして、だからこそヘレンから逃げられなかった。知らなかったとは言え、君を毒殺した。そうさせたのはヘレンだとしても、気弱な青年が耐えられるものじゃない。棺を見るのが怖い、葬儀に参列するのが怖い、ヘレンが怖い、何より一人になるのが怖い。だから、彼はヘレンと共にロンドンに逃げ出した。そうしなければ、正気を保てなかっただろう」

男の声を聞きながら、彼女はそっと目を閉じ、記憶の波間に身を委ねた。懐かしいベヴァリーの日々。幼い頃から引っ込み思案で、泣き虫だった可愛い弟の顔が思い出される。大人になるにつれて、鬱陶しいと、邪魔だと感じるようになった弟、臆病者のステファン。
不意に、冷たいものが乾き切った頬を伝った。それが何かを、何故かを、彼女は知りたくなかった。
男の温かい手が、そっと拭った。

「ヘレンのことは聞かないのか?」
「ええ、興味ないわ」

声が震え、咽喉の奥で詰まった。

「私、あの子が大嫌いだったわ。心の底から、ええ、心の底から!父親が事業に失敗してロンドンから逃げ帰ってきた負け犬のくせに、私達を田舎者だと馬鹿にして。卑屈そうな顔をしながら、あの子は私達を見下していた。生まれて死ぬまでベヴァリーに縛り付けられていた私達を!」
「アン、それは」
「わかっているわ!それが彼女の唯一の自尊心なんだと。ある日、いきなり小作農の娘に変わってしまった彼女の唯一の心の支えだったとわかっているけれど……それでも憎らしかったのよ、あの眼!勝ち誇る、あの眼が。だって、そうでしょう。ベヴァリーから出られなかったのは私のせいではないわ」

それが、ただの八つ当たりだと言うことを、彼女は知っている。ロンドンに出る手段はあった。間違いなく、存在した。鉄道が走り、人も物も、容赦なく運ばれるこの時代、ロンドンに行くこと程容易いことはない。実際、彼女はついにジョン・ナイルズに手を引かれて、大都会に来た。驚く程、容易に。そう、一人でも不可能ではなかった。
ただ、その道は決して彼女を、大都会に出たいと思い、恋い焦がれている娘たちを幸福にはしない。平穏も未来もない、地獄への道だった。踏み出すには、彼女の勇気は足りなかった。躊躇わせる理性だけが、あった。

「私はあの子が憎かった。だから、あの子も私が憎かった。……それだけのことよ」

溜め込んでいた思いが吐き出された瞬間、頭も身体も軽くなった。彼女は己の涙が、魂の最後の一滴が枯れたことを知った。もはや、何もない。ここには、何もない。瞼の裏に、最期が見えた。
やはり、見なかっただけなのか。彼女はじんわりと心に広がる平安を受け入れた。

「ジョン・ナイルズは元気かしら?」
「ふん。俺の友人が雑用に使っているさ」
「そう。……最後にお願い、彼に伝えて」
「何と?」

彼女は目を開けた。ヘレンもステファンもいない暗闇の中に、男の姿もすでにない。ただ、彼女を憧れの大都市へと導いた男の顔が見えた気がした。

「騙してごめんなさい。ありがとう、と」







あとがき
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