誰かこの絵を知っているだろうか。
美しい絵画だ。
ただし、モナ・リザほど有名ではない。真珠の耳飾りもしていないし、裸体を惜しげなく晒してもいない。どちらかと言えば無名画家の手になる、一般にはまったく知られておらぬ絵だ。だけどそれは本当に美しいのだ。
やはり誰も知らぬに違いない。ほんのわずか、絵の中に棲む令嬢から認められた、限られた人間以外には。
私がその絵と知り合ったのは今からもう七十年も昔のことだ。戦時中だった。後の時代から見れば終結が目前の時期だったが、渦中の私には永遠に続くかと思われる苦しい時だった。すべてが混乱した、支離滅裂な現実だったのだ。
そんな時に私はその絵に出会った。こちらを向いた、美しい令嬢の絵に。
どこで出会ったのか、しかとは覚えておらぬ。思い出す度に記憶が混乱していく。ただ一つ、正確なことは地下だったことだ。薄暗がりの中、爆音をやり過ごしてから立ち上がった時に、正面から目が合ったことだけは今でもはっきりと覚えている。自分以外の人間がいたことに驚いて悲鳴を上げたような気もするが、そちらは定かでない。それほどまでに令嬢は圧倒的な存在感を放ち、生きているかのように私を見つめていた。美しかった。戦時には似合わぬ美しさだった。もっとも、彼女との逢瀬は一瞬で終わってしまった。ふたたび爆音が近付くことはわかっていたので、私はそこを逃げ出さねばならなかった。もっと安全な場所に身を隠す必要があったのだ。
次の出会いは、私が三十路に入ってからだった。年を経るにつれて現実的な人間に変わっていた私は、ただ一度会っただけの令嬢のことを忘れていた。混乱した記憶の奥に、あの絵のこともしまいこんでしまったのだろうと思う。大きな戦争を終えた世の中には、あいかわらず不幸が満ち溢れていた。その中で、ほんの一掴みの人間だけが他人の身体にたかった蛆を利用して、自らを太らせていた。もちろん私もご多分にもれず、だ。がむしゃらな時代だった。だから私は自分を彼女にはふさわしくないと、無意識に思っていたのかもしれん。そして、この手に抱けないなら忘れてしまえと考えていたに違いない。
それなのに、やはり不思議なことに、運命は私に再会を命じた。
絵は街角のある店に飾ってあった。一目見て懐かしい記憶をよみがえらせた私は、すぐに店主に絵を譲ってほしいと頼んだ。金銭にものを言わせようと、言い値で買うと訴えたが、残念なことに断られた。しばらく通いつめて懇願したが、店主は決して首を縦に振らなかった。そのため、彼女は私のものにはならなかった。無念だった。しかも、すぐに店は商いを止め、店主は行方が知れなくなった。
三度目は、つい先日だ。初めて会ってから七十年。廃墟の地下室、街角の店、そして今度はある未亡人の家だ。彼女は若く、華やかで魅力的だ。私の友人と結婚したのだが、およそ一年で後家になってしまい、遺産を受け継いでからは静かに別邸に引きこもって暮らしている。その別邸にあの絵はあった。絵の中の令嬢はあいかわらず美しかった。くだんの未亡人さえ、彼女の前ではかすんで見える。令嬢は以前にも増して生き生きとした表情で佇み、一瞥をもって私を魅了した。私はとっさにひざまずいておった。
七十年!
知らぬ間に叫んでいた。焦がれ続けた令嬢を前に、私はすっかり気が動転して、まるで初恋に翻弄される少年のように詮無い愛を告白した。すっかり忘れていた時代があるなどとはおくびにも出さず、いかに自分が恋い焦がれていたかを滔々と語った。
すると、信じられないことが起こった。それまで女王が臣下を睥睨するように私を見下ろしていた令嬢が、わずかに微笑みかけてきたのだ。私は目を疑い、そんなはずはないと思った。こんなにも美しく、世界に君臨する女性が、八十を目前にした現実のちっぽけな男に温かい微笑みを投げかけてくれるなどありえぬと思った。それでも私は浮かれた。浮かれて、彼女をもう一度よく見た。
喝采を叫んだ私を嗤わないでほしい。彼女はやはり微笑んでいた。慈愛の微笑だ、恩寵の微笑みだ。七十年を片恋に費やした哀れな道化師へ、女王が憐れみを垂れてくださったのだ。信じられない奇跡が起きたのだ。私は人生のすべてが報われた気がした。愛の勝利だと思った。
未亡人は私の言動を薄気味悪そうに見ていたが、そんなことは関係ない。すぐさま私は買い取りを申し出た。すると彼女は強張った顔で、夫の遺産のひとつですが、夫のご友人である貴方様になら差し上げます、どうぞお持ち帰りください、今すぐにでも、と小さく述べた。ゆえに、私は喜んですぐさま絵を持ち帰った……。




祖父の残した手記を閉じて、僕はゆっくりと顔を上げた。僕の前には、祖父が生涯愛したその絵がある。モナ・リザよりも美しいと祖父が書き残した絵。祖父が未亡人から譲り受け、その直後に死んでからは父の所有になっている絵。
「そりゃあ、令嬢は美しいけれどね」
僕はしばらく絵を眺めてから、小さく溜め息をついた。この絵に魅入られた人々は、いったいどこに目をつけていたのだろう。令嬢の微笑み、優位に立つ者のおおらかさを含んだ眼差しか。どちらにしろ、僕には信じられないことだ。
絵の下方に視線を落とすと、背景の色が濃くなっているのがわかる。そして、濃い背景色の中に浮き出ているものたちに目を凝らせば、もはや絵の真価が令嬢の美醜にないと知ることができるだろう。
暗い色彩によって人目から隠されているのは、顔だ。人の顔。苦悶に歪み、あるいは怨嗟に狂った顔、顔、顔。男たちの顔が折り重なりひしめき合って、令嬢を見上げている。
「僕は恐ろしいけどなぁ」
マドモワゼルXの肖像。ほっそりとした頬のラインと、静寂に満ちた佇まい。偽りの尊厳に満ちた美の供給源にされた数多の男たちを足下に踏みつけて。
絵の中に祖父の顔を見ると情けなくなる。もう一度、深く溜め息が出た。醜い絵だ。僕はゆったりと絵に歩み寄り、額縁から外した。
「……さようなら、おじい様」
胸ポケットに隠し持っていたオイルライターを取り出し、画布に火を移す。
燃える炎さえも美しく、マドモワゼルXは微笑んだ。だが、僕は感銘を受けなかった。黙って彼女を暖炉の中に放り込む。絵はしんみりと燃え、やがて灰になった。ほんのり温かい一山の灰に。これで僕のすべきことは終わり。
部屋を出ると、従僕が恭しい表情と態度で僕を迎えた。
「坊ちゃま、旦那様がくだんの絵のことでお呼びになっていらっしゃいますが」
「わかった」
僕はうなずいたが、少し困った。あの絵はもう焼いてしまった。祖父同様、あの絵に魅入られた父に知れたら少々厄介なことになるかもしれない。何とか誤魔化さねば。そう思いながらも、僕はライターを取り出して従僕に渡した。従僕だけは信用できた。なぜなら彼は僕の乳兄弟であり、あの絵を見ていない人間だから。
「こっそり父様の上着に返しておいて」
「畏まりました」
「僕が持ち出したことは内緒だよ」
「承知しております」
慇懃に答える従僕。もっとも彼の興味は僕が部屋にこもって何をしていたかではなかったらしい。眼に愉快そうな光を浮かべてこちらを見ている。嫌な予感がした。
「ところで、坊ちゃま」と、我が乳兄弟は愉しそうに告げた。
「さきほど奥様が、また坊ちゃまが家庭教師を追い出したと、非常にお怒りでしたよ」
やっぱり。思わず僕は顔をしかめて、抗議した。
「僕のせいじゃないぞ」
「さようでございますか」
僕は胸を張った。そうだ、僕に非はないはずだ。
「もちろん、そうだ」
僕はただ丁重にお帰り願っただけなのに、向こうが勝手に泣いて帰ったんだ。それなのに、従僕は僕の言葉を信じていないようで、白々しい表情をしている。くそう。
「そうでございますか」
「そうだ、ついでにお前の口から母上に伝えてくれ。一時間の授業で8歳の子供にスペルの間違いを十三箇所も指摘されるような家庭教師は僕のためにも雇わないでください、と」
「畏まりました、坊ちゃま」







蛇足
この物語はイワン・ニコラエビッチ・クラムスコイの『見知らぬ女』を見たことで生まれました。実物は見たことないのですが、写真で見る限り、私、モナ・リザより好きかもしれない…と。





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