「誰も寝てはならぬ」



カオルに捧げられた歓声が聞こえる。
タチアナはそっと息を吐き出し、涙をこぼさないように上を向いた。

(泣く資格はわたしにはないものね、タツミ)

心の中で呟いた。きっと優しいタツミなら、そんなことないよ、と笑うだろうが、タチアナはどうしても泣けない。タチアナは己の意思でタツミから逃げたのだから。自分にはには泣く資格などないと思う。
しばらく天井を睨みつけ、涙をこらえる。疲れるほど強く歯を食いしばる。我知らず、拳を握りしめていた。爪がてのひらに食い込む。痛い。だが、それよりも胸が痛い。
タツミと初めて会った日のことは、今でも忘れていない。それはカオルと初めて会った日でもあった。彼と目が合ったのは偶然だった。背格好に特別なところはなかったのに、なぜか一目で惹きつけられた。呆然として立ち尽くすタチアナに彼は近づいてきて発音の曖昧な英語で挨拶した。タツミは誰に対してもそうだった。

「はじめまして」
「……はじめまして」

タチアナは恐る恐る彼の差し出した手を握った。握手したのは、この一度きりだ。すぐに別の誰かが彼を呼びに来て、そのまま連れて行ってしまった。何となく視線で彼を追っていたら、ポニーテールの女の子と愉しそうに話しているのが見えた。それがカオルだった。タツミに促された彼女は、遠くからタチアナへ笑いかけた。
次に会えた時、タツミは小型のキャリーバックを引っ張っていた。彼はタチアナを見ると、にっこり笑って手を振った。それぞれに語る言葉は、日本語とロシア語。意思の疎通は難しい。だからタチアナはタツミと話す時、英語を使った。タツミも下手な英語を使っていた。彼の場合、発音は怪しかったが文法だけは正確だった。

「こんにちは、タツミ」
「タチアナ、ひさしぶり」

それからは、何度も顔を合わせた。当然、同じ競技に打ち込む同性のカオルとは、もっと頻繁に顔を合わせた。同じ年齢、同じ女の子。顔を合わせる度に素直なカオルと親しくなりながらも、心の中で自分と比べる日々が続いた。友人であり、ライバルであり、同志であり、そして恋敵でもある女の子。どうして比べずにいられようか。勝ちたい。負けたくない。競技も、恋も。ただしカオルは気付いていなかっただろう。思うに、タツミは何も言わずに逝ったに違いない。

「キッスして」

タチアナがタツミにそう言ってみたのは、ただの勢いだった。少し前の大会で表彰台の真ん中に立ったことで気分が高揚していたからでもあり、カメラマンにちやほやと褒めそやされたからでもあった。今思えば、可愛いし才能もあるね、と言われたことで舞い上がっていた。きっとタツミだって、わたしにそう言われて不快な思いはしないだろう、と考えていたように思う。
確かにタツミは拒否しなかった。そして、どこまでも優しかった。

「わかった」

言うが早いか、彼は少しだけ背伸びをしてタチアナの額にキスを送った。そして、笑った。いい気になっていた彼女に冷や水を浴びせるような、寂しそうな微笑だった。タチアナは悟った。タツミがすべてを知っていたことに。

「君は大切な友達だ、タチアナ」

優しさがタチアナを狼狽させた。タツミは気付いていないフリをしていたのだ、三人の友情にひびを入れないように。それが正しい解決策かどうかは彼にも確信がなかっただろう。それでも、彼なりにタチアナを傷つけまいと懸命だったのだ。優しいタツミ。彼は14歳の少年らしい努力でもって友人を守ろうとしてくれていたのに。愚かなタチアナは己の手で堤防を決壊させてしまったのだ。
今のタチアナには、タツミの優しさの拙さがよくわかる。もっと別の言葉を彼は選ぶべきだった。けれども、恨む気はない。あれは14歳の彼なりの精一杯だったのだ。

(ごめんなさい、タツミ)

あのキス以来、タチアナは逃げた。タツミから、そして彼が愛したカオルから逃げ続けた。どうしても大会で顔を合わせなければならない時はコーチに頼んで周囲をシャットアウトしたもらった。他にいい方法が見つからなかった。そうして、ある日、永遠に逢えなくなった。残されたのは無残な後悔だけ。
回想を振り切るように、タチアナはゆっくりと一歩を踏み出した。

(タツミ、どうして今日あなたはここにはいないのかしら)

そして、滑り出す。ここは広くて狭い氷の戦場。どれだけ苦しくとも独りで立たねばならぬ白い世界。舞台の上ではもう誰も助けてはくれない。力尽きるまで演じ続けなければならない。

(ああ、あなたが今も観客席にいたら)

不意に、カオルも同じことを考えただろう、と確信した。観客に、ジャッジに見せながらも、カオルはここにいるはずのない一人への想いを込めて演じ切ったはずだ。歌に生き、愛に生きた美しき歌姫トスカを、渾身の力で天上に捧げた。
タチアナも身体を温めながら想像してみる。観客席にいるタツミ。柔らかく微笑みながら見守ってくれる、あの眼差し。決して情実に囚われることのない、公正な魂。彼の言葉は決して甘くはなかった。

――― 君は大切な友達だよ、タチアナ、どうか忘れないで。

耳元でタツミの声が聞こえたように感じて、はっと顔を上げる。そんなはずはない、と知りながら。
いつの間にか客席の沈黙は変容していた。そう、観客は待っている。じっと待ち焦がれている。次の生贄を待ち望んでいる。次は誰だ。次は誰だ。次は誰だ。耳をすませて、彼らは待っている。もう、引き返せない。逃げることはできない。勝つか、負けるか。カオルは演じ切った。次はタチアナだ。観客を、ジャッジを、天上のタツミを惹きつけろ。感嘆させるのだ。

(愚かだった私を許してくれるのかしら。そうだとしたら……しあわせね)

ひとり心に呟いて、予定通りの場所に立つ。曲は静かに始まった。誘うように、一度落とした視線をゆっくりと上げていく。ジャッジの一人と目が合った。その刹那、タチアナは無言のまま会場全体に向けて号令した。しなやかな腕と動きと共に。


『誰も寝てはならぬ』








「星は光りぬ」
用語一覧



▽歌姫トスカ
フランスの劇作家サルドゥーの悲劇に取材した、プッチーニ作曲のオペラ「トスカ」の主人公。作中、恋人の助命のために身体を寄越せと言い寄られた歌姫トスカが過酷な運命のために神に祈る「歌に生き、愛に生き」が有名。その他「星は光りぬ」など作中の楽曲はフィギュアスケートでよく使用される。

▽「誰も寝てはならぬ」
プッチーニ作曲のオペラ『トゥーランドット』中に登場するアリア。三つの謎を解けた男と結婚するが、仮に謎が解けなければ処刑すると言う、冷酷な姫トゥーランドットに求婚した王子カラフが第三幕で歌う。日本ではトリノ五輪で荒川静香が金メダルを取った時に滑った曲として有名。


Der Kus〜心に咲く花の名は



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