「星は光りぬ」



まだ、余韻が残っている。ざわめきは潮騒のように、会場を埋め尽くしている。
一回りして元の位置に戻ってきた薫は、敏感になった全身でそれを感じていた。視線、囁き声、ため息。一つ一つの小さな動き、わずかな音が突き刺さるように響く。肌を刺す。鼓膜を揺さぶり、心臓を打つ。思考を掻き乱す。
ひとつ、深く息を吸って、吐く。動揺している場合ではない。恐れてはいけない。
マイクを通した女性の声が聞こえた。何を言っているのか。確かに聞いているはずなのに、まったく認識できない。

「ただ、見ているだけじゃ、ダメなんだ。認識しなきゃ意味がない」

誰の言葉だっただろう。いきなり脳裏で言われて、薫は驚きに目を瞬かせた。コーチだろうか。少し考えてから、違う、と首を振る。ゆっくりと回り、ぐるりと足下の感触を確認する。そうして独特の音を聞きながら思いをめぐらせると、壁に描かれた原色の文字が浮かび上がった。

「認識しなきゃ意味がないんだ」

映画のワンシーンが思い出される。そうだ、と薫はうなずく。昔見た映画、幼馴染と夜更かししていて、深夜に偶然見た映画だ。主人公の男は目が見えるようになって戸惑っている。今までにない恐怖を感じ、パニックを起こし、どうしたらいいかわからなくなる。見えなかったものが見える。人と違うのは視覚ではなく、認識の方だった。だが、やがてその壁を乗り越えて、彼は自らの道を見つける。

(自らの道、か……)

いつの間にか、小さくなりかけていた潮騒は、ふたたび盛り上がり、いつの間にか手拍子になっていた。誰もが待っている。何か、爆発的なことが起きるのを。それは、薫に期待されていることではない。だが同時に、次の瞬間には薫に期待されることなのだ。爆発的な、何か。それを薫は知っている。確かに知っている。

「よく、わかんないんだけど」

不意に聞こえた声に、薫は顔を上げて観客席を見回す。だが、ない。いつもの笑顔は、もうない。空耳だと知って、薫は目線を落とした。ここは舞台。白い、白い舞台の上。煌びやかな照明がスパンコールに反射する。黒と紅。光と影。栄光と挫折の地。

「薫って、案外、難しいことばっかり考えてるんだな」

案外って何だ、と心の中で呟き返す。目を閉じて、そういうことを心外と言うのだ、と目蓋の裏に残る面影に語りかけると、相手はニヤリと笑った。それを見て、薫もちょっとだけ口許を緩める。静かに昂っていた心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻し始めていた。ふわりと一回転し、感触を確かめる。
まだ手拍子は続いている。薫のためではない手拍子。待ち切れなさが、大きなうねりになりつつある。遅い、と観客たちが焦れている。何か揉めているのだろうか。もう一度、大きく舞台の上を旋回しながら考える。右足。左足。インサイド。アウトサイド。身体に馴染んだ動作を繰り返していると、じっくりと空気が馴染んでくる。

「真っ最中は、何考えてんの?」

動きをいったん止め、白い舞台を見据える。怖気づかないように。だから、もう観客席を探さない。それでも尋ねる声は間違いなく聞こえてくる。すでに離れてしまった、けれども今だけはこんなにも近い声。ふたたび、ひと蹴り。勢いをつけ、右で踏み切り……下り立つ。何を考えていただろう、と薫は自分に問いかける。

(コーチの言葉、音楽のこと、振り付けのこと。次の動作、プログラム変更を考える時もあるわ)

温まった身体のまま白い舞台を横切る。手拍子は知らぬ間に終わっていた。驚愕の歓声も落胆の吐息も聞こえなかった。何かがあったはずなのに。薫には何も聞こえなかった。神経が冴えわたり、観客の視線をこんなにも熱く感じているのに、彼らの引き起こす音は何も入ってこない。ただ舞台の上の空気の震え、エッジの音だけが聞こえる。

(だけど今日は違う気がするよ、巽)

コーチの目の前で、止まる。熱視線に、観客の存在をすぐ傍で感じながら息遣いさえ聞こえない。氷の硬さ。エッジの感触。いつしか舞台が無限に広がっていく。薫は今、リンクの上に独りで立っていた。
視線が交わった刹那、リンク脇に立つコーチの目がいらずらっぽく細められて、薫は思わず瞑目する。残された面影と比較してみると、まさに瓜二つだ。目を開く。今はもう隣にない笑顔をコーチの眼差しに見つけて、ゆっくりと微笑む。望み続けた時がようやく訪れたのだ。


「俺、もうちょっとだけ生きて、薫の最高の演技が見たかったな」


…カオル、カネシマ。ジャパン。
名前がコールされる。それだけがはっきりと聞こえた。観客席の反応は、遠い。

「さあ、始まりだ」

コーチの言葉に身体を反転させて、舞台の中央、白く光る場所を見据える。氷の欠片に照明が乱反射して、きらきらと輝く。なんて美しい場所。そして、なんて残酷な場所。次の贄を待つ神の台座のごとく、神聖で怖ろしい場所。ありとあらゆる涙を呑み込んできた氷の舞台。遠くに聞こえる喝采は、もしかしたら祈りだろうか。去りし人々を悼む声。

「コーチ」
「うん」
「巽は、きっと見てくれていますよね。どこかで」

全身が研ぎ澄まされているからこそ、気配がわかった。背後で大きくうなずいたコーチの、確信に満ちた表情が見えたような気がした。

「コーチ」
「うん」
「最高の演技、します」

四年前に果たせず、こんなにも待たせてしまった約束は、今でも有効だろうか。すでに指切りをした相手はいないけれど。それでも薫は果たしたかったのだ。初恋の彼に告げることなく終わった、その想いの分だけ。だから、死に物狂いでここまで来た。誰に何を言われても諦めず。約束は果たされるべきだと信じて。

(私の、最高の演技を)

深呼吸。会場の空気を肺いっぱいに吸い、そして吐く。コーチの大きな手が背中にそっと触れた。その温もりがまるで巽のようで、親子だな、と思う。やることが同じだ。薫は全身に熱いものが漲るのを感じた。熱さは身体の中で涙ではなく、勇気に変わる。コーチの手を通して、確かに巽の気配を感じたから。今だけは、すぐ後ろにいるかのように。
大きな温かい手に宿った、幼なじみの彼が強く彼女を押し出した。

さあ、行こう。最高の演技で、舞台へ!


「薫、世界を取ってこい」
「はいっ」


――――そして、もうすぐ「トスカ」の幕が開く。








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