それは、丁度、黄昏時だったと思う。書見台に向かっていた時の事だ。
その時の私は小さなホテル、それもかなり古ぼけて、建築法に照らすと危ないのではないかと思う様なホテルに泊まっていた。何故そんなホテルに泊まったかと言えば、街の中にはホテルが一軒しかなかったからだ。決して好きこのんでの事ではない。
その日は朝からホテルの窓の外に鬱屈した気持ちを更に暗くさせる様な曇天が広がっていた。しかし徐々に日暮れが近付いてくると四角く切り取られた曇天もやがて見えなくなり、ランプに灯を入れる頃にはすっかり天気の事など忘れてしまっていた。ランプに灯を入れた正確な時間は覚えていない。なにしろ、時計を見る気にもならない程、読書は快適に進んでいた。ただ、晴れた日よりも早かったのは確かだろう。
ところが、急に窓の外が騒がしくなった。最初は気に留めなかったのだが執拗に音は続いた。ぱらぱら、ぱらぱら。余りにも続くので、雨でも降っているのだろうか、と顔を上げて窓を見たが暗くて外の様子は見えなかった。再びページに目を落とす。しかし一度耳にこびり付いた音を剥がすのは容易ではない。それも話し声ではなく、単調な雨音の様なものなら尚更だ。仕方なく栞を挿んで、本を閉じた。カーテンを閉めようと思い立ったのだ。
窓辺に立ち、外を確認する。しかし雨が降っている様子はない。不思議に思って窓を開けると、ガラス越しよりも大きく聞こえるものの、雨も霰も降ってはいない。ただ、シルエットさえも曖昧になりつつ立ち並ぶ古い建物の合間を縫って沈み行く太陽の最後の残照が一筋二筋、それも殆どを雲に掻き消された様な弱々しい光で洩れているだけだった。誰そ、彼。実に良く出来た言葉だと思った。そうしてその間も音は続いている。不思議に思いながらも如何ともし難い。ただ黙って窓を閉め直し確実に施錠してカーテンを引いた。布のお陰でほんの少しだけ音は優しくなった。それでもう一度本を手にとってページを開いた…



気付くと夜だった。カーテンの引かれていない窓からは何の音もしない。時計は夜の十一時過ぎを指している。当惑しながら立ち上がると同時にノックの音がした。慌ててドアを開ける。見慣れた顔のボーイが立っていた。彼はインドからの移民だそうだ。彼の英語は流暢だが、聞き取る側にやや問題があるので、いつもゆっくりと発音してくれる。モア・スローリー・アンド・クリアリー。その程度の英語も発音するのに苦労する異国人の客に対してもこのボーイは丁寧に対応してくれていた。

「夕飯を食べにいらっしゃらなかったから、心配しました」
「あ、ああ…すまない、どうやら…えぇっと…寝ていたらしい」

居眠りという英単語さえ思い出せない客にも、彼は嫌な顔一つしない。異国の小さな町で一人で滞在している人間にとって彼のような存在は仏にも等しい。

「空腹でしょう?サンドウィッチを持ってきました。それと、珈琲」
「ありがとう」
「いいえ、お礼を言われる事ではありません。私の分と一緒に作っただけですから」

どうやらボーイの彼もサンドウィッチを夜食に食べてから従業員用の部屋で眠るらしい。少し考えてから扉を広く開いた。

「一緒に食べないか?」
「…喜んで」

ボーイは少し考えていたが、そう答えて微笑してくれた。彼と彼の押してきたワゴンを部屋に受け入れると、急いでテーブルの上に放り出していた雑誌や新聞を片付ける。そこへすかさず彼がサンドウィッチを並べた。少々の野菜と多少の揚げ物を挟んだだけの質素な物だが充分にご馳走に見えたのは腹が減っていたからだった。

「本当にありがとう。感謝する」
「大したことではありません。それよりもお加減でも悪いのですか?」

英語もできない異国人の客が急病で寝込んでいるのではないかと思い、彼は仕事の後に部屋を訪ねて来てくれたのだ。その心配りに感激した。そして彼の心配を取り除くために病気ではない旨を告げ、ついでに黄昏時に聞いた音の話もした。ボーイは珈琲茶碗を持ったまま黙って聞いていてくれた。

「…という訳で、その後に眠ってしまったらしい」

居眠りと言う単語はやはり思い出せなかった。ボーイはずっと我慢強く私の話を聞き終えてから、ゆっくりと珈琲を飲んだ。暫く彼は何度か珈琲茶碗を上下に往復させていたが、やがて、静かに口を開いた。

「ずっと昔、私の父がこのホテルに勤めていました。その時に父が担当したお客様からも、その様な話を聞いた事があると言っていました。今、お話を聞いて思い出したのですが。父のお客様は新大陸からいらした方だったそうですが、やはり黄昏時に雨か霰の降る様な音を聞いて窓の外を見たところ、その様な事もなく、唯、黄昏の町並みがあるだけ。不思議に思いながら窓を閉めて椅子に戻った所で記憶が途切れて、気が付くと夜。父は夕食を摂りに食堂にお出でにならない事を心配して、今の私の様にサンドウィッチを作って珈琲と共にお持ちして、その出来事を聞かされたそうです。そこで気に掛かった父は当時の支配人へ報告に行きました所、過去にも何度か同じ様な事があったと言われたそうです。きっと貴方様がお聞きになった音と同じものでしょう。特に害がある訳でもございませんが、ご不快な様でしたら支配人に話してお部屋をお替えしましょうか」
「部屋を替えると聞こえなくなるのか?この部屋だけが聞こえる?」
「いいえ、そういう話は聞いておりません。ただ…」

そこでボーイは言葉を切ったが、数度瞬きすると意を決した様に言葉を繋いだ。

「少なくとも、父のお客様の部屋はこの部屋でしたので…」



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