小さな港町に着いた彼はしばらくのんびりと街並の中を歩いていたが、やがて小さなB&Bに出くわすと数秒の躊躇の後で中に入っていった。見るからに年代ものの扉は鈍く軋みながら彼を受け入れる。入ってすぐの所にカウンターがあり、一人の若い女性が座って本を読んでいた。彼女は彼が入ってきたことに気づくと小さく小首を傾げて用件を尋ねた。彼が無愛想に、宿泊、とだけ答えると、彼女も黙ったままで鍵を差し出した。紐で繋げられた木札には掠れた様な文字で「405」とだけ書いてあった。黙然と受け取った彼は奥の階段をゆっくりと上り始めた。
部屋は質素だが悪くはなかった。ベッドと物書き机、それからバスルームがあり、簡易キッチンがあった。小さな町のB&Bにしては充分な設備だった。彼は室内を見回してから重い荷物を床に降ろし、ベッドの端に腰を下ろした。
窓の外は夕焼けだった。彼がロンドンを発った時、そこは霧の海の中だった。道中も、ほとんどが暗澹とした気分になる曇天か雨天だった。それだけに目的地の天気が良いことは彼にとって何か酷く悪いことのように感じられた。せめて曇りなら。そう思いながら彼は鞄の口を開けた。
荷物の一番上に、壊れない様にと布に包んだ懐中時計があった。彼はそれを物書き机の上に置き、衣服を引っ張り出した。時期的に気候は悪くない。彼は少し考えてからシャワーを浴びることにした。浴室に出向き、蛇口を捻る。勢いはあまり良くなかったが、充分な熱さの湯が出た。できるだけゆっくりと湯を浴びてから、彼は部屋に戻った。湯気によって温められた身体に部屋の空気は心地良くて、少しだけ気分が楽になった。新しいシャツに袖を通す。窓の外はすっかり日が暮れていた。
食事をする気にはなれなかった。ここ数日、食欲がない。鞄の中程にひっそりと入れておいた小さなボトルを取り出す。中にはウィスキーがまだ半分ばかり入っており、彼はそれを一口呷ってベッドに潜り込んだ。眠気は全くなかった。物書き机の上のランプの赤みがかった黄色の光だけが静かに部屋の中を照らし出している。彼はベッドの中から腕を伸ばして懐中時計を手に取った。一度指でその表面を撫でてから蓋を開けようとして、やはり躊躇する。もう一度、二度、表面を指で撫でる。唐草模様が彫り上げられた表面の凹凸をランプの下で確かめる様に。
やがて、彼は諦めた様に懐中時計をもう一度机の上に戻した。眠気はまだやって来ない。彼はただ、枕に頭を預け、ベッドの上に身体を横たえていた。灰色の両眼は室内を映しながら、実は何も見ていなかった。彼はじっと息を殺しながら、孤独な思考に沈んでいた。



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